うーんでもいろいろ問題あるのは若い人ばかりではない。
私よりもずっと年上の人が昔、「飲酒運転で警察につかまった警察はけしからん酒を飲むのも仕事のうちだ飲酒運転合法化しろ」と怒鳴ってたもんな。
今このタイミングで財政健全化をやるのは自殺行為だからできない。
でも国債の発行額が大きくなると円の信任が崩れて必ずインフレ率も上がる。インフレ率が上がった時、国債の償還財源も国債頼みである以上、国債の増発をやめることはできない。
今はインフレ率が低いから良いが、上がりだしたら雪だるま式に上がって止めることが出来なくなる。
日本政府が借りてるお金、それを貸してるのは国民。待っているのは果てしない円安と物価上昇のスパイラルだ。それは額面はそのままでも実質的に国民の財産を目減りさせて、物価上昇による国民生活の破綻を招く。
ギリシャが混乱した時、状況が全く異なる日本が「ギリシャと同じになる」と極端な悲観論で空騒ぎをしたかと思えば、今度は正反対に「お金は発行すれば無尽蔵にある」ような馬鹿な話。お札という紙切れや円という抽象的な数字を増やして何が豊かになると思ってるんだろう。
今は財政健全化なんて出来ない。先送りする以外にない。でもいつまでもは続けられない。今は世界じゅうが積極財政で金融緩和に走ってるから円が他の通貨と比べて相対的に下がらずにいるだけだ。
と言ってもね。第二次大戦の時も、信じたくない現実から目をそらして日本は勝てる(とまで本気で思わなくても精神論でどうにかなる)と思い続けた。バブル崩壊の直前も、危険性を叫ぶ人たちがたくさんいたが、聞く耳もたずに投機に走り続けた。
「見たくない危機は見ない」という悪癖はどうにもならない。
日本がいくら巨額の債権国であろうと、実際どれだけが「返ってくるお金」なのか。米国債なんかは安全資産だけどこれも自由に売れないんだよ。
国債を無尽蔵に出せるなら1人10万円なんてみみっちい話をせずに1人1億円ずつ配れよ。
日本人は全員億万長者やぞ。
そして現実に気づく。
…なんて言ってるが現況の経済情勢では10万円の再配布はやらなきゃいかんのかもね。
>>202
能力のない人間が「自由」を求めたらむしろ自分の首を絞めることになるんですけどね
めちゃくちゃ勉強してもテストできなかった人は案外素直で、勉強すらまともにしてないのにテストできなかったから他人に責任転嫁して文句を垂れるみたいな現象があちこちで見られます
親や環境のせいにするなんてよくある話
仮にそれが事実だったとしても、そこで自己への責任を回避したところで、同情してもらえるのはネット上だけで、日常における真の問題は何も解決しないんですよね
努力もできない、才能もない、そんな人間でも会社の言うとおりに従えばお金もらえて生活できるのがある意味日本の良いところ
それを捨てて自由を要求するということは、自分で責任を負わないといけなくなる
にも関わらず、みんな自分のせいにされたくないんですよね
親のせい、上司のせい、会社のせい、薬のせい・・・それは事実だとしても、100%丸々すべてを他人のせいにできるわけない
個人主義が悪い方向ばかりに進んでいって、自分と他人とがあまりに乖離しすぎてしまっている
弱者救済は総論として間違っていないのだけど、それは非日常的な政治の議論でしか成立しない
実際の日常では、傷のなめ合いしているだけ
覚悟を以て「個」として強くならないと、一生しんどいまま
非日常の哲学ばかりが横行して、日常の哲学が不足しているように感じる
学者の世界は非日常の空間だから、彼らの言説が日常を支配するようになってるのは正直やばい
非常識な議論をするのが学者の仕事で、それは思う存分してもらっていいのだけれど、日常に適用するのはまた別
日常の世界にはまったく別の力学が働いているのだから
目の前に広がる日常の世界があまりにもモノクロになり過ぎているせいで、中国ガ―とか自民党ガ―みたいな、やたらと主語が大きな非日常の議論がネット上で横行しているんだろうなあ、と思っちゃう
>>202
ここで言っても本人たちには届かないだろうけど...
○子どもを叱るな!
物事を教えるだけなら別に一々感情的になったり暴言を吐いたりして不快な想いをさせることまでは必要はないでしょってことなのかな?
んー、ケースバイケースじゃない?
勉強を教えてる際に理解できないからって一々怒ってるんなら、いやそれは必要性ないじゃんとは思うけど、してはいけないことをさせないために叱ることはあってもいいんじゃないの。
まぁ、その場合の「叱る」の意味は「なぜやってはいけないのかを理解させるため」というより「悪いことをしたら罰が下るってことを理解させて、自制心を植え付けることで被害を生まないようにする」って目的の方が比重が重いだろうから、より叱ることは望ましいのかなと。
もちろん叱り方は考えないといけないとは思うけどね?
それこそ命に関わるレベルの暴行とかは法律抜きにしても御法度だし。
○やりたいことを止めるな!やりたくないことをやらせるな!
これどういう論調で言ってるのか分からんなぁ。
四六時中ゲームさせるような極端なケースまで容認してるのか、それとも誰がどう見てもやりすぎだろってレベルで親に束縛を受けてるケースに批判してるのか。
まぁ、何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」だよね。
俺は「やりたいことをやるなとは言わん。けどやらないといけないことはちゃんとやりなさい」って言われて育ったので、親ガチャは普通に当たりです。
○会社を無断欠勤したら怒られた。好きで連絡しなかったんじゃない(鬱で電話できなかった)から上司は理解しろ。
怒ったところで問題は解決できないこともあるとか、事情も聞かずに第一声から怒号を飛ばすなって話なら理解できるけど、きちんと怒られないと行動しない人もいるから「怒る」ことそのものを否定しているのなら俺は理解しかねる。
解決したくばきちんと話し合って両者が納得いく策を頑張って見つけてくださいとしか。
>勤務中居眠りしたら怒られた
>眠くなる薬の副作用だから仕方ないだろ
要は眠ってしまわないようにしたいので、その為の方法として「怒る」ことが効果を発揮するのであれば、寧ろ喜んでいいんじゃないですかね。
眠気を覚ますのに何も不快な想いをする必要はないだろうというのであれば、それを色々相談して解決策を考えればいいと思います。
そうだねー。
自分の身の回りの問題は、自分だけのせいじゃない、会社だけのせいじゃない、日本社会だけのせいじゃない、政治家だけのせいじゃない。
それを自分だけのせいだと思って抱え込むのも、会社ばかりを恨むのも、政治だけのせいにするのも違う。
世の中は複雑に絡み合っているのだから責任の主体はファジーでいいと思う。
たとえば児童虐待があったとして、子どもに罪はないけど、親だけのせいにするのも違うし、行政だけのせいにするのも違う。親は親でめちゃめちゃストレスを抱えていて、他人が想像できないほど追い込まれていたのかもしれない。行政のサポートが手厚ければ避けられたかもしれない。その行政は児相も人手不足でとても1つ1つのケースを見きれず、保健所なんてコロナ禍で死にそうな状態。
だったら児相や保健所にもっと人手を回さない自治体が悪いかというと、自治体にそんな人を雇うお金がない。最終的に国になんとかしろと言いたいけど国だって各分野に問題山積でお金を回せる余裕がない。こっちの予算を増やそうとしたらあっちの予算を減らすことになるし、全部増やそうとすればそれこそ国債発行しまくりになるし、何をやっても必ず批判されるのが国。
一番悪いのは、「こいつさえやっつければ全部うまくいく」と物事を単純化して煽動することだと思う。誰をやっつければうまくいくのか、いろんな意見があると社会の分断と対立を生むし、意見がまとまるとそれこそヒトラーの「ユダヤ人をやっつければ全部うまくいく」みたいにもっと恐ろしいことになる。
逆に「自分さえいなければ…」と病む人も多くて痛々しい。
>>202
>その結果として怒られるのも仕方ないだろ。
怒ることでどんな結果になるのか、そういうことも考えないでただ闇雲に感情的になってる人に対して”だけ”は仕方ないとは思えないかな。
>でもそれが勤務中なら「どうぞおやすみ」と上司は言わんぞ。
「あ、そうなの?じゃあ俺が定期的に起こしてあげるよ」とか「こうすると眠気覚めるらしいよ?」とかのアドバイスの1つや2つはしてあげてもいいんじゃないのとは思うけど、それは求めすぎかな?
>自分の全力でも出来なかったことはどうしようもないけどその結果は受け入れろよ。
受け入れるのは当然として、その上で「できればこうしてほしい」と要望するくらいなら罰は当たらないと思うけどね。
誰が悪い悪くないとかってのも大事ではあるけどさ、それに拘りすぎて誰がどうすることで問題を解決できるかって考えられないのであれば、それは改めるべきだと思わない?
>>211
○子どもを叱るな!
叱りすぎが良くないのは分かる。大体、叱りすぎると「叱りのインフレーション」(私の造語)が起きて、叱る効果が薄れていくんだよね。だから叱り方が激しくなる一方になって、ついに虐待に至ったりする。
けど、ここ一番の時には叱ることも大事。自分や他人の命や安全にかかわる時だとか。私の考えでは、「めったに叱らないことで『叱る』という行為の価値を上げて、ここ一番の時に叱る」。私の実践してきたことは、叱ることで怖がらせるのではなく、「あの人が叱るなんて!」とビックリさせることで「これはいつもの悪いこととはレベルが違うんだ」と気づかせることだった。
○やりたいことを止めるな!やりたくないことをやらせるな!
これは、「無理強いをするのではなく、望ましいことをやりたくなるように誘導しろ」という意味で使われる。
望ましいことをやりたくなるように誘導するのが上手い人もいる。それはいいんだけど、いつも望ましいことばかりをやりたくなるように誘導するのはさすがに難しい。それができないとできない職員の力量がないせいだ!と怒られることがまず問題。「子どもが勉強しないのは先生のせいだ」と責めることになる。実際、責めたくなるくらい教え方が最悪な先生もいるんだけど、子どもが勉強しないのがすぐに「勉強したくなるような授業をしない教員が悪い」と言われるのは荷が重すぎる。
また、やりたくないことをやらせるとトラウマになるから無理強いするなということでもある。
でも、これが徹底されると、子どもはやりたいことだけをやって、やりたくないことはやらない、という経験しか残らない。それで急に社会人になって通用するわけがない。すっごい小さい頃はともかく、大きくなるにつれて段階的に「我慢」や「無理」も覚えないといけない。
無断欠勤については、上司はいきなり怒るんじゃなく理由を聞くべきだと思う。極端な例では、脳卒中で意識が無かったから連絡できなかったとか。さすがにこれが事実なら責められん。
けど、精神的に病んでたというのもあるけど「休むという電話をしづらかった、言いにくかった」ってことならそりゃ懲罰対象になる。言いにくくても最低限の責任でしょ。会社には会社の都合がある。体調不良は誰にでも起こり得るし、それは社員同士でフォローし合うのが大事だけど、会社のルールを守ると契約書にハンコを押して採用された以上、ルールを破ればこういう処罰があるよというルールも受けないといけない。
どうしても出来なかったら、出来なかったこと自体はやむを得ないとしても、出来なかったことで招いた結果は受け入れないといけない。
居眠りも似たような問題で、まあ一度や二度なら「こらあ!」と言われる程度で終われるだろうけど常習犯になると問題。
実は、急激に逆らえない眠気に襲われる病気もあるらしい。まあ一種のてんかんみたいな脳神経的な問題だったかな。そういう場合は怒られても仕方がないのでそれなりの治療を受けるべき。ただ、私の見たケースは薬の副作用。それなら医者と相談して薬の調整をしないといけない。
実は私もこれは有り得る。私は車酔いするから長時間車に乗る時には酔い止めが必要なんだけど、酔い止めのせいで起きる眠気にも耐性がない。これは困った問題で、でも眠っちゃ話にならないから酔ってでも薬を減らすしかない。「私は酔うから酔い止めを飲みます。だから勤務中に寝ます」はいくらなんでもありえない。私の常識では。
もちろん、その人だって気楽に寝てるわけじゃないだろうから、コーヒーとかドリンク剤とか眠気覚ましのガムとかを使ったうえでのことだろうけどね。
>>213
やらなければならないことをやらなかったらどういう結果になるかを当人が考えるべきであって、考えたうえでも出来ないのであれば、その結果は甘んじて受けるしか無い。怒るほうが怒ったらどうなるかを考えるのはその後の問題。上司は保護者じゃない。もちろん、「闇雲に怒る」のは上司としての資質が疑われる。
定期的に起こすってそれこそ上司は親かよ。大人同士だぞ…。まあ上司がそれくらいヒマならやってあげてもいいんだろうけど、勤務中に寝ないのは社員の義務だよ。ってそんなことまでわざわざ言わなきゃいけないんだろうか。
寝ずに済むような良い方法を上司が知ってたら教えてあげるべきだし、部下の管理責任があるから相談にも乗ってあげるべきだけどね。それは上司としての仕事。でも多分、薬で眠くなるのなら、起こしてもらってもまたすぐに寝るし、仮に起きててもフラフラで仕事内容はほとんど出来てないと思う。
「できればこうしてほしい」という要望するのはもちろん構わない。希望を言う権利はもちろんある。実現できるかどうかは別だけど。
解決策を上司と部下とで相談するのは大切なことだよね。
ただ私は、「無断欠勤しないこと」、「勤務中に居眠りしないこと」そんなことは当たり前のルールで怒られて上司を恨むのはお門違いってことを言いたかった。
しかし、勤務中に居眠りしてたらめちゃくそ怒られるけど、勤務中に外に出てタバコを吸ってても怒られないという明らかな矛盾があったりする。
薬の副作用で眠気を我慢できないから寝てますは許されなくて、ニコチン中毒だから我慢できなくてタバコを吸いに出ますが許されることに合理的な説明は出来ん…。
勤務中に居眠り連発して、業務に支障きたすレベルなら薬の管理に失敗してるから主治医と相談して薬の種類変えたり量を変えたりしないといけない
んで薬の管理は、基本的に本人の責任だから、言い訳にはならない
自己管理しようがないぐらいの薬漬け状態なら、そもそも休職しろって話
>>212
単純化したほうが分かりやすいし、敵も作りやすく、仲間も作りやすいですからね
しかも厄介なのは、そういう連中に限って、自分たちこそが世の中を俯瞰していて、世界の真理を知っているという態度を取りがち
分からないものに対する耐性が無いんだと思います
理解できる形に変えてしまわないと不安になる
だから、なんでもかんでも分かりやすさ重視になってしまう
本屋に行ったらバカでも分かるタイトルの本ばかりがトップに並んでますからね
自分には理解できないものとどう向き合っていくのか(例えば他人なんてその大きな例ですね)
その向き合い方のヒントをくれるのは哲学や思想などの人文科学なのだと思います(最近は理系に押されて軽視されがちですが)
文系学問が政治や経済や法律を語るためのツールになってしまっているのが非常に残念
大多数の自己啓発本がなぜ効果がないのかっていうと、著者自身が理解できるはずがないものを理解できる形にしちゃってるんですよね
だから読んだ瞬間はなんか世界が開けたような感じを受けても実際は全然何も変わらんわけです
童謡を読んでいるほうがよっぽどためになる
俺が小学校低学年くらいまでは
>知らない人に「お菓子あげるからこっちおいで」って言われてもついて行っちゃダメ!
って防犯のテンプレがあったんだけど、そんなことをする人もそれに引っかかる人も実在したのか未だに疑問。
ていうか今の時代でもこれはテンプレなんだろうか。
今ではSNSでのトラブルが絶えないし、時代時代によって変わるはずだよね。
昔はどうだったのかとかも気になる。
そのテンプレは私が子どもの頃からあったのでかなり古典的。
「お菓子をあげるからこっちおいで」は、昔の田舎には本当にお菓子をあげる人がいたんだよ。子どもが可愛いなーと思ったらお菓子をあげたりね。田舎じゃたいてい顔見知りだから、大人のほうはその子を知ってるけど、子どものほうはその大人を知らないこともある。
私も小さいころは近所の人とか父の仕事関係の人とかにお菓子をもらって、母の知らない間に食べてたらしい。もう覚えてないけど。
本当の善意でお菓子をあげるおじさん・おばさんが少なくなかったから、子どもも食べてた。私は「ついていく」ことまではなかったけど、「おじちゃんの家にお菓子食べにおいで」みたいなことって、普通に善意であったわけ。
だから、それが犯罪に使われてもおかしくないね。犯罪に使われるようになると、防犯のために親は「ついて行っちゃダメ」と教育する。
私が子どものころはネットなんて存在しなかったけど、アマチュア無線をやってる人は無線で友達を探して、そこからリアルの友達になったり文通をしたりすることがあった。手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』の中に「ハローCQ」ってお話がある。車椅子の少年が、アマチュア無線でニュージーランドに友達を作る。外国だからどうせバレないと思って、自分の足が悪いことを隠して、野球で活躍した話題なんかをデッチ上げてたわけ。で、その人から「一度会ってみたい」と言われて会うことになり、会えばウソがバレてしまう…さて困ったどうしよう、ってお話。
今ならそれって、ウソがバレる以前にセキュリティ的に危なくない?と言うだろうけど1970年代はあんま気にしてなかった。
話は違うけど昔「毒物コーラ事件」というのがあった。ある人が電話を使うために電話ボックスに入ったら、そこに開封済みのコーラが置いてあった。ちょうどノドがかわいていたので飲んだら、それに青酸カリか何か入ってたという事件。今なら、たまたま入った電話ボックスに置きっぱなしになってた開封済みのコーラを飲む人なんていないでしょ。昔はそれだけ警戒心がなかった。この事件以降、「置きっぱなしの飲食物は危険」と注意喚起されるようになった。
私は田舎育ちだから、同じ時期の都会よりも周囲の雰囲気が10年か20年は遅れてた感があって、おかげさまで昭和30年代レベルの経験ができたのかもしれない。今みたいに通信も交通も発達してないから都会と田舎の格差が大きかった。
話を戻して、実際に子どもにお菓子をくれるやさしいおじさんやおばさんが珍しくなかった以上、それを利用した犯罪者が出るのは自然な成り行きだったと思う。
そもそも私が、立憲支持者の多いような界隈に生きていて、なのに私自身が安保重視で軍拡的な考え方の持ち主だから、ストレスが溜まるんよな…。
周囲の人と政治思想が合わない。
>>219
単純化して物事がクリアに見えたほうが分かった気分になっちゃうんでしょうね。
残念ながら世の中は非常に複雑でとても真理なんて見えたもんじゃない…。
分からないものを分かりたいというのは人間の好奇心で非常に重要だと思うけど、短絡的にすぐに結論を求めようとするからとんでもない単純化が起きてしまうんだろうな。
バカでもわかるほど分かりやすいものなら読まなくても最初から分かりますわ。
サルでも分かるってタイトルもあるなぁ。読んでも分からなけりゃサル未満か。
難しいものを誰にでも分かるように解説するって実際にはものすごく深く理解してなきゃできないことなのに、簡単にやっちゃってる著者が多いのは理解してないんだろうね。
私は昔、親鸞をマジメに解説してる本を読もうと図書館でトライしたけど5ページで投げた。
そして親鸞を理解できなくてもいいから自分流に曲げて自分の哲学にすりゃいいやという結論になったので、私の考えてる「悪人正機」などは親鸞の悪人正機とは別物に仕上がってる。でも自分の中で役立ってりゃそれでいい。
「自己啓発」ってずいぶん前から流行ってて自己啓発のための研修会も職場で奨励されてるけど私はほとんど興味なく。最初はいくつか受けたんだけどその場でなんか納得したような気分になるだけで現実に活きたことなんてなかったんで。
といって私に講師やれって言われても結局あまり役立たないものしかできないんだろうな。だから講師を責める気はないが、役立たない研修のために予算使って「やってます感」を出すこと自体には疑問がある。
めちゃくちゃどうでもいいことだけど『らき☆すた』のこのやりとり好き。
小神あきら「響いてこないんだよお前のセリフ! ただセリフ言うだけならサルでもできるわ!」
白石みのる「いやサルにはできないんじゃ…」
『サルでもわかる○○』なんて自己啓発本があって常々「いやサルには分からんでしょ」と心の中でツッコミしてたんでこのシーンが妙に気に入りました。
https://twitter.com/Le_a1477/status/1448469620344729604?s=20
偶然にも俺も同じことをやってて、他にもやってる人がいるのは驚いた。
元々は電気代の節約と目に刺激を与えたくないが為に始めたことだった。特に寝る前とかは睡眠の質を下げるとかって話もあるから、じゃあ出来る限り光は発さない方がいいんじゃねって。
ありとあらゆる端末の明るさを最小出力するだけに留まらず、トイレに入るときは電気をつけなくてもドアの隙間から射し込んでくる光のおかげで全く見えないことに気づき、最終的には入浴時でもやるようになった。
ただ、どうも目に刺激を与えないことが直接目の回復に繋がっているわけじゃなさそうなんだよね。どちらかというと目の筋肉を休めるって感じ。レンズを伸び縮みさせる筋肉と眼球そのものを動かす筋肉の2つ。
多分だけど、普段スマホやパソコンを使っているせいでこの2つの筋肉が凝り固まってしまっていて、完全な暗闇にいるとこの2つの筋肉は使う必要が全くなくなるから自然と脱力した状態になるんだと思う。
特に俺は中学生の頃から既に学校で行われる眼科検診で「何かを注視していないときに若干外斜視になっている。今のところ日常生活には影響はないけど、普段画面を見すぎているせいで目が休もうとしている結果だ」って言われていた。
視力検査では1.5は普通にあるけど、明らかに視力は落ちてるという自覚はある。視力検査のとき穴がどの方向に向いてるのかは分かるけど、はっきり見えているわけじゃなくてぼやけながらもかろうじて判断できるって感じ。
そんな俺がこれをやってみると、実際に状態は良くなってるかは知らんけど、休まった感は多いに得られるんだよ。
俺の場合入浴には大体40分ほどかかるんだけど、40分間も脱力していると、明るい部屋に出ると1分ほどこの脱力状態が続く。
この1分が凄いんだよ。
人は無意識に見ている物体に目の方向とピントを合わせているから、意識しない限りはズラしたりはできないよね。でもこの1分間は逆のことが起きる。意識して目に神経を集中させないとちゃんと見られない。ちゃんと見ようとするとしんどいんだよ。目に力を入れるのが億劫になるというか、筋肉にかなり負担がかかるのを感じる。長い距離を歩いた後ようやく座れるってなって「あー、めちゃくちゃ楽だー」みたいな、あんな感覚。
でもこれってただ風呂場の電気を消しておくだけじゃ意味ないんだよね。ドアの隙間から射し込んでくる光とか、風呂場のスイッチの光とかも完全に遮断して、目がどれだけ暗闇に慣れても本当に何も見えない状態にしないといけない。俺の場合だとテープやタオルを使わないとできない。
それだとシャンプーボトルとか、何がどこにあるのか分からないんじゃないかって思うかもだけど、以外とそうでもない。何がどこにあるかなんて毎日、何年と使い続けていれば忘れることはないし。自分が向いてる方向を変えても、その際の動作がどれくらい角度を変えたかは普段の生活で感覚が身についてるから、どっちに壁があってどっちにドアがあるのかも全然分かる。
アニメとかだと目を瞑ってても攻撃を避けられるみたいなのあるけど、冗談抜きであれと似たようなことができる。
ただ、物を落として「あれ?どこいった?」ってなったら面倒くさい。自分の頭で予想できないものはさすがに無理。手探りで探すか、最悪電気をつけなくちゃいけなくなる。
個人的な効果としては、今のところこれで視力が良くなった感じはしないかな。毎日やってないっていうのもあるだろうし、そもそもこれが適切な方法かどうか全く調べてない。ちゃんと休ませたいなら目に良い食べ物とか目薬とか、こまめに休ませるとか、より適切な方法にするべきなんだと思う。
仮に疲れは取れていても、遠くを視るために使う筋肉が普段使ってないせいで衰えてしまっている可能性も十分ある。遠くの方を見ると視力が上がるっていうのはあながち間違いじゃない。もちろんこれもただ遠くを視るだけじゃなくて、適切なトレーニング方法があるんだろうけどね。
それに、どれだけ適切な方法であっても、誰しもが効果を得られるとは限らない。今言ったのは主に筋肉の酷使に起因するもので、老眼や生まれつきのもので原因が全く別ということはあり得ないわけじゃないから。
詳しくは眼科医のYouTubeチャンネルの動画で。
https://youtu.be/_6Y_SkGQjck
完全な暗闇だと危なくない?
失明してる人は日常生活全部が見えないからそれに慣れてるけど、普段「見える生活」をしてる人は見える前提で体を動かすから、暗闇だとレンズの筋肉を使わない代わりに想定外の場所に何か置いてあると転びそう。
私は逆にめちゃくちゃ目が悪くて起きてる間は眼鏡がないと何もできない。近視+乱視で、これ以上度の強い眼鏡は光学的に作れないらしい。極端な凹面レンズを作ればできないことはないんだろうけど、収差が大きくなって実用的でなくなるのかも。コンタクトは最初から無理。
風呂に入るとレンズが曇るから、起きてる時間帯で唯一眼鏡を外すのが風呂。まあ、何も見えないわけじゃないけどぼやーっとして全体像しか掴めない感じで、足元とか結構注意してる。暗闇だと完全に見えないからレンズの筋肉は休まるだろうけど私の「目が悪いから見えない」状態だと、見えないものを見ようと努力するから余計に疲れるな。
眠ってる間は目はどれだけ休まってるんだろうね。外からの光はほぼ入らなくなる一方、レム睡眠中は眼球が動くからレンズの厚さも動いてるんだろうか。
「企業の採用担当」という人が「仕事のできる人に必ず共通する能力」として、
・タイピングが速い
・エクセルに熟練している
・ショートカットキーをたくさん使える
と書いてあったけど、私の感想は「こんな基準で選ぶ会社には勤めたくない」。
この基準が通用する職種ってめっちゃ限定されるし、秒単位の早さばかり求めてて仕事の質の観点がまるでない。
私の場合は仕事の文章を推敲しまくるからタイピングの早さとか全然関係ないしエクセルも超基本機能しか必要ないし、秒単位での高速化はしてないけどいつも手順の合理化をしてるから速くて質の高い仕事をしております。
手の動かし方が速けりゃ仕事が早いってもんじゃないのよ現実は。
パワポですごく美しい資料を作る人もいる。
作られた資料の中身はぜんぜん大したことない。
この「やってます感」の演出のために何時間割いてるんだろう…こういう「他人に見せる仕事」ができるほうがほんと評価されるんだよね…。
本当に仕事してる人は上司に向けた自分の「舞台劇」にパワー使ってないから評価されんのよ。
【中露艦隊が大隅海峡を通過】
どうもわからんな。
先日、津軽海峡を通過した中露艦隊が、日本を一周して今度は大隅海峡を通過した。これはすっごい挑発的行動になる。
単純に考えると、最近、米欧の艦船が相次いで台湾海峡を通過しているから、それに対する仕返しだと取れる。日本はもちろんのこと、日本に基地をもつアメリカに対する示威行為と見てとれる。
しかし、今は選挙の最中。自民党よりも立憲民主党のほうが中国に対して融和的なので、本来なら中国は立憲が議席を伸ばすことを望むはず。立憲が政権交代する可能性はほぼなくても、立憲が議席を伸ばして自民が減らすことで、日本の政策決定を停滞させて、日米同盟がうまく機能しなくなることを中国は望んでいるはず。
なのに選挙中に露骨な示威行為をすれば中国脅威論を煽ることになって、結果的に自民党を利する。しかも自民党内では、親中派の二階の力が衰えたところだ。自民党の一極政治が続くことに中国は何の利益を見出すのだろう。
示威行為は選挙が終わってからでも出来るのにわざわざ選挙期間中にやって日本の反中感情を刺激してどうなる?
中露は絶対に「このタイミングでやることによる影響」も計算したうえでやってるはずで、なんらかの深謀遠慮があるに違いない。ここは単純に怒らずに冷静に意図を推測すべきところだ。
何かあるとすれば経済的な影響か。
中国は今不動産業がかなりヤバくなっていて、それを引き金に経済的混乱が起きる危険がある。日本の政治が与野党伯仲で機能不全に陥り、日本経済が混乱すれば、それは中国経済の不安定化にも拍車を掛ける。だから当面は日本にも混乱してほしくない。そのためにあえて自民党を利するようなことをする。
…というのは、ありえなくはないが、どうも動機としては不十分だな。
最近中国はTPPへの加入を申請した。これは対中包囲網の攪乱には非常に効果的な一手だと思うが、中国の体制でTPP加入は不可能なのは分かってるから、逆に反中派を勢いづかせて中国のTPP加入申請をできるだけ強力に日本が突っぱねるように誘導する。
TPPに台湾が加入して中国が拒否されるのをできるだけ強硬に演出することで、日本が中国よりも台湾を優先させたことにして1972年の日中国交正常化を日本が破ったと言える口実を作りたいとか?…いやこれもちょっとこじつけ臭いな。
わからんなー。とにかく選挙中に日本を挑発して反中感情を利用するつもりだろうとは思うが、具体的に何を求めているのか。ここは感情的にならずに冷静に冷静にだ。
それにしてもなぜ大隅海峡?
普通に考えると日本列島の間近をうろうろして台湾を威嚇しつつ宮古島の辺りを横切りそうなところ、鹿児島の近くを通ったのは、より日本の心臓部に深く切り込んで強い圧力をかけるため…か。
十のうち八はそうだろうが、残りの二分は、中国かロシアのどちらかに「早く戻りたい理由があった」とも考えられる。
自衛隊はもちろん大隅海峡も警戒してただろうが、日米の潜水艦や哨戒機が一番集中してるのは南西諸島のほうだろうから、中露艦隊のデータをなるべく与えたくないので多少とも手薄な場所を通ったという可能性もあるな。
大隅海峡を通った理由の可能性をまとめると、
①日本本土近くへ切り込んで圧力効果を高めるため
これだったら、中国が最も標的にしたい台湾や、米軍基地の大半が集中する沖縄を避けたわけだから、圧力の対象は完全に日本限定になる。そうなれば「なぜ選挙期間中に?」という疑問がなおさら高まる。
②近道をして戻るため
この場合、それほど急ぐ理由がどこにあるのか。先に津軽海峡を通ったことを受けて米軍あたりが何か圧力の仕返しをして、その対応のために早く戻ったというのがありそうなところ。
③データを収集されることを避けた
どこを航行しても飛行機はすぐに飛んでくるから、避けたのは潜水艦のほう。加えて、日本が本土近くを手薄にするとは思えないので、日本の潜水艦よりもアメリカの原潜を避けたかった。米原潜はどうせ両方に居るんだろうけど数の少ないのはこっちだろう。そうだとすれば、先日アメリカの潜水艦が何かにぶつかったことと関係してるかも。
考えても分かるはずのないことだけど考えてしまうな。
選挙のタイミングであえてやらかすってことは中国は自民党に勝たせて9条を改憲させたいんじゃないですかね
そして日本が侵略戦争をする国に戻った!!と宣伝して中国国民がより戦争に協力するようになる的な
中国の国内事情はよくわかんないけど割と今戦争する余裕はなさそうだし実は解放軍や国民の士気は低いのかもしれない
https://twitter.com/yousayblah/status/1452067816337727490?s=20
グレタみたいな活動家ってやれやれって言うだけで具体的な方法を一切示さないバカだけど、ソイツ黙らせても問題は何も解決しないんだよなぁ...。
私は政治的な意見は言うけど選挙運動はしないから、直接「ここに投票しよう」とか「ここに投票しちゃダメ」と選挙期間中に言わないことにしてる。
ただ常識的に考えてやばそうなところはあるよね。
その「常識」が人それぞれなのかもしれんけど。
今までの発言を見てると、ナチュラルは「どこに投票したらいいのか分からない」から「一生懸命いろいろ勉強しよう」としてるんだけど、結局どこを選ぶのが正しいのかを決める責任を感じて決断できないって感じなんだよね。
それだけマジメに考えた結論なら、どこだっていいよ。
私の考えが正しい保証もどこにもないんだし、それぞれが正しいと思う人(政党)に投票した結果が国民の選択なんだから。
ええかげんなノリで投票する人だって多い。それはやめてほしいけど、マジメに考えたうえで選ぶのなら、結果的に間違ってたってそれは仕方のないこと。
1990年代は私が人生で一番楽しかった時期にあたるから
私にとっては遠い過去だ…
あの若さはもう二度と手に入らない(儚げに夕日を見ながら)
ツイッターのトレンドに惑わされる人が少なからずいそうだから怖い
内容もほとんど煽りや中傷だし…
小学校の先生「ちかごろ小学校にあがってくる子どもが最低限のことがもできなくてつらい…社会生活のために保育園や幼稚園でここまではできるようにしてほしい」
保育園の先生「小学校の準備のために保育してるんじゃない。それは小学校で教えるべき」
両者の認識の違いが激しい…。
まあ幼稚園保育園は義務教育じゃないから、小学校でゼロから始められるようにするってのも一理だろうけど、そもそも自由保育一辺倒に賛成できない私は幼保で最低限のこと(何が最低限かはいろいろ考えがあるだろうけど)を教えておく必要があると思ってる。
「小学校のやり方のほうが間違ってる」という問題じゃなくて、現実問題として困るのは子ども本人だからね。それを困らないようにするのが小学校の先生の責任だろ、と言うのなら丸投げも甚だしい。
幼児教育ってのはほんと理想論者が多いんだよね。それじゃ将来社会でやってけないよ、って話をすると、「間違った社会に適応させるロボットを育ててるんじゃない」とすぐに返される。どっちが正しいも間違ってるも、現実の社会が変革してくれない限り困るのは本人なんだから…。で、本人が困ったら「社会が間違ってるのであって自分の育て方は間違ってない」と言うなら本当に無責任だよ。
社会が子どもに合わせて変革するまで、社会に合わない子どもを育て続けるんだろうか。
「子どもには無限の可能性がある」みたいなの、言葉としては美しいけど人間の可能性は有限なんだよ。…と、理想を求めるリアリストを自称する私は思うのであります。
古典的な保育の発想を持ってる人は、そこに時代の潮流にあわせて新しい保育方法を混ぜてハイブリッドにする余地があるけど、最初から新しい保育を信奉してる人には「座らせる?みんな一緒に行動?大人の都合で育てるつもりだ!古い!悪!」みたいなテンプレが出来てる人いるよ。
要するに「古い人」は自分の古さを知ってるだけに「少しは新しいものも取り入れないといかんなぁ」って発想ができるけど、スタート地点から最先端の人は「古いものは全部過去の遺物で間違い」と思いがち。
てか、保育士でも幼稚園教諭でも幼児教育の専門家でもない私が偉そうに言うのもアレだけどね。
教育問題を考えるとどんどん低年齢の話に突き進んで最後はそこにたどり着く。
教育者(保育者)というのは選択肢のひとつを提示してるに過ぎない。最終的に教育方針を選ぶのは親。教育者や保育者には、尊大にならないでほしい。たまたま自分の提供している教育方針が、この世のすべてではない。