「面白いね」って言われるのと同時に「目死んでるね」ってよく言われるんだけど、負のオーラ出てるんだろうか?
薬漬時代の写真見ると自分でもウワッてなるほど目が死んでるんだけど、他人から見ればあまり変わらない?
なんか世の中に起きてるほとんどのことに興味がなくて、財産も大きな家もブランド物も何もかもどうでも良い
6畳の部屋でひたすら本読んで、ひたすらサブスク見て、定期的に山登れれば他に何も望むものがない
山で自給自足して暮らしたい
漱石が「20世紀の人間はみんな探偵になる」って言っているけど、21世紀はその傾向が強すぎる
誰もが探偵になってしまって疑いの目を向けることになんの疑問も抱いていない
少しでも彼らの矮小な想像力の中から外れれば大罪人のように扱われる
社会って本当になんの意味もない
一回読んだものだって時が経てば全く違う顔が見えてくるから、何度だって読み直したくて仕方がないし
そうでなくともその中の一節を思い出せばふとまた会いに行きたくなるものであって
だけどいま刻一刻と作られているエンターテインメントがそれらに劣るか(今生きている私にとって)といえば、それは決してそうではない
遺らないかもしれないけど、遺るものだけが素晴らしいわけじゃない
今消えてしまう一つの風景でも、それを目にした人の一生の一助になることは往々にしてあると思う
みんな世界遺産とか海外の絶景が、本当に自分の半径50kmの範囲にあるものより素晴らしいと信じてるんだろうか?
どうして遠くを見ることは褒められるのに近くをじっと見ることは凡庸で無欲でつまらないと思われるんだろう
スマートフォンは望遠鏡の役目ばかり果たして虫眼鏡として認識する人なんてあまりいない
1を一生追いかけることがたくさんの100を見て回ることにどうして勝るんだろう
もう詳しい内容は忘れたけど私は10代のころ漱石の『行人』が好きだった。
特に終盤の一郎のセリフが大好きだった。「僕は明かに絶対の境地を認めている」というセリフ。
それに照らしてみると私自身が地理を調査する人で、山河を跋渉する人じゃない。ところが私は地理を調査しながら山河を跋渉する両方の仕事を選んだ。
幸いなことに私は一郎ほど理屈一辺倒じゃなかったし、理屈でいくら絶対の境地を解説できてもそこに到達するには不連続的な跳躍というのか、そんな何かが必要なんだなと思った。
そんな漱石をちょっとかじったうえで、学生時代に親鸞に詳しい人と知り合ったり、大学の授業で神秘主義のエックハルトの話を聞いたりしてると、なんか全部つながって見えた。
ただ、私は20代まではすごく成長したと思うんだけど、そのあと成長した気がしない。向上することよりも現状肯定する人生を指向してしまったもので。
哲学者なぐやな
最近社会に”役に立つ”ことばかりを勉強しているけど、昔より頭悪くなったなと感じる
何の疑いもなくそれが善いことだと信じている人たちが圧倒的多数派で、その中にどっぷり浸かっていると、中枢神経まで浸食されている感覚がある
そんな状態で、社会のためという名目で身を削っていると抵抗する思考力すら奪われていく
変に抵抗せずに社会の海に沈んだ方がよっぽど楽なんだろうけど、一度その海がゴミで濁っていると知ってしまった以上もう本能的にできないんだよね
僕は「絶対の境地」と「則天去私」はおそらく同じものじゃないかと思う。
そしてすごく分不相応な考えだけど、僕は世間より少しだけ、その境地に近いんじゃないかと思う。
一郎の目指す「絶対の境地にいる人」と「世間にいる平凡な人」の間には、一郎のように頭の良すぎる人の他にも、世間から押し出されてしまった人間が揺れ動いているように思う。
要するに、世間で言うところの無敵の人のこと。
気が狂ったと世間には認識されているであろう無敵の人だけど、僕は少し理解できる。要するに一郎が百合や向こうの山を「僕の所有だ」といったように、他人というものと自分、森羅万象との境目がなくなってしまうから、傷つけることに抵抗がないんだと思います(というか、傷つけることも自然に組み込まれてしまう)。心の動きもまた、全て自然なことだから。
大学の教授に今言ったようなこととか、自分自身の経験を話したとき、
「でも(無敵の人と呼ばれる人の)全員が全員、大量殺人やその他の犯罪に走るわけじゃないから不思議ですね」って言っていた。
確かにそれはそうで、僕や彼らのような人間は見えている(姿を表す)何倍も潜在していると思うんだけど、それにしては顕在する数が少ないよね
どこがその境目だったんだろう
別に実際に恨みをぶつける対象がいるかいないか、ってことはそんなに重要じゃないと思う(京アニの件みたいに、何もないところからそれを創り出すことは全く難しくないと思うから)。
なんか既視感あるなと思って過去ログ漁ってみたら、2015年に南雲さんと行人について話してましたwww
7年前も同じ話してたんだと思うと感慨深いなあ
一郎の言う「絶対の境地」と親鸞の言う「自然法爾」とエックハルトの言う「離脱」が同じなんじゃないかと思って前のレスを書いた。
それは老子の「無為自然」にも通じると思う。
無為自然であれば大量殺人をすることもないし、止めることもないと思う。
我々と同じ人しかわからないと思うんだけど、無敵の人は無敵の人同士でなんとなく「同類だな」ってわかる。
今日同じような人と話したとき、「初めて会ったときから気づいてた」って言われた。
死ねない人も、気が狂えない人も、
案外淡々と暮らしている。
そうでない人には本当に頭がおかしいと思われるかもしれないけど、本当に僕らは同類を嗅ぎ分けることができる。
要するに、社会学で言うところの逸脱だ。
逸脱したものは逸脱したものを簡単に見つけられる。
この世界の何もかもがどうでもよいという態度、諦念の滲んだ目、差し障りのない口調が、それらのすべてが、僕らにそれを伝えるのだ。
逸脱者は逸脱者同士のほうが幸せになれるのだろうか。
逸脱者同士の恋というのは、ぼくが先述したような不思議な第六感に伴って生まれたもので、人間の本能から自然に生まれたものではないんじゃないだろうか。
それでも片方がそれを真実として捉えたとき、その恋はどうやって収拾をつけたら良いのだろう。
知り合ったばかりとか、友達の彼氏とか、そういう人に親しい友達リストに入れられてると嬉しいような疑うような気持ちになる
グループLINEって緊張するからいつもおじさん構文で話してたら、いつもどう話していたのか忘れてしまった
変にオタクっぽいと思われるんじゃないかとか、冷たく思われないかとか気にしてしまう
研究室の人と少しだけ話すようになったんだけど、それから大学で見かけたときに挨拶するべきなのかすごい迷ってしまうようになった
挨拶してもスンッで感じだと「しないほうが良かったのかな」って不安になる
本当は全員とグータッチぐらいしたい
全く化粧しないで、適当な服で常に歩いていたんだけど、知り合いができると誰似合うでもなくても化粧したくなる
格好だってテキトウなので会ったらすこし恥ずかしくもなる
これが…社会性…(?)
知り合いが誰もいないとき(僕はこれを、教習所のようだと感じた)はどんな格好で行ってもなんとも思わなかった
スウェットで登校したし髪も取り敢えずくくるぐらいだった
まず歩くときに、誰も僕のことを知っている人がいない前提で歩いてた
だからすれ違う人の顔なんて見もしないし、人間として見ないで景色の一部だった
その景色の中から急に一部分が動き出して、くり抜かれるようにしてこちらに話しかけてくるから、少しびっくりする
でも知り合いが増えるということは、帰属意識を少しは満たしてくれているのかな…
大学では世界とか、グローバル化とか、成長するアジア経済とか言うけどさ
僕の周りでは親さえ正月に帰ってこないとか、部活でのいじめのトラウマから逃げられないとか、めちゃくちゃな借金を返すとか、そういうことにみんな悩んてるのに、そんなこと言われても全く現実もないし、想像もつかないんだよ
といいつつ、年末コロナになりまして、ひたすら自宅謹慎の最中です
バイト先で年明けを迎えるはずが家でのんびり紅白を見ました。
正月もアルバイトのはずがずっと自宅でサブスクとにらめっこしています
年末年始、年中行事らしいことは何一つせず、社会を出れば大晦日だろうが正月だろうが昨日と地続きの今日なのだと感じるばかりです
40度になると頭がぐつぐつ煮えているような気がしてきて、自分の身体に熱源が収まっているんじゃないかって思えた
熱は程なくして下がったんだけども、今になって味覚が消えてしまった
何を食べても熱い冷たい柔らかい固いの区別しかつかなくて、少し面白い
僕は食に興味がない方だけど、味がなくなると本当に食欲がなくなる
興味がない興味がない言っていても、味はちゃんと楽しんでいたんだなと思った
あけましておめでとうございます
やっぱりコロナは大変ですね…
熱が下がってもそれで終わってくれない
味覚障害はオミクロン株になってからあまり特徴的な症状としては言われなくなってきてますが
やっぱりあるんですね…
どうかお大事にして下さい
有り難う御座います!🙌✨
そう言えば、
なぐさんのキャップの
『則天去私(そくてんきょし)』
って、
かの夏目漱石が
晩年に到達した文学観を表す語と
某サイトに書いてありましたが、
何とも深い四字熟語なんですね~😮