>>929
真面目な話ばかりしすぎて、気持ちよくないことばかり考えさせ過ぎちゃったかな。
11月ごろだったか、キャンパスカウンセリングを受けたことがある。妹の生活態度の悪さと、それに影響される両親や、何より俺の生活習慣にまで影響を及ぼすほどで、多分あれは鬱の一歩手前まで言ってたと思う。
症状としては、そわそわするというか、ドキドキするというか、不安感ともまた違うような、とにかくそういう今まで味わったことのない不快感のせいで全く眠れない日々が続いた。この症状が出たのは、妹が夜中に宿題を片づけている時に出る物音で叩き起こされることが原因。しかも日付が変わる頃(最も睡眠の質が問われる時間帯)だから、不眠で済むわけがない。
でも、もっと辛かったのが、ストレスに敏感になりすぎてたということ。
不眠による思考力の低下と度重なるストレスで、嫌なことばかりがちらついて、普通の人じゃ何とも思わないような些細なことにまで
苦しめられるようになっていた。自分なりにではあるけど、合理的に物事を分析する哲学的な思考を意識して過ごしてる俺が、もう考え方どうこうじゃどうしようもないところまで追い込まれてて、本当に危険を感じた。その危険を自覚して、すぐさま合理的に対処しようと思えたのはひねくれ者の俺だからこそ出来たことかもしれない。
そこでキャンパスカウンセリングのことを知った俺は迷わず受けることにした。カウンセリングというくらいだから、きっと心理学に長けた人が具体的な解決策をポンと出してくれるんだろうなと思ってたから、俺のストレスをどうにかするよりも、妹を心理学的にコントロールする方法を聞こうと思ってたんだけど、ストレスの原因を根本的に解決することが最も確実で効果的なのは間違いないけど、それはとても難しいことだし、それを解決するための方法を考えてる間にも心は蝕まれるから、だったら別のことををする方が一番だよって言われた。だから、俺が思ってたようにマインドフルネスとか脳トレとか、一方的に知識を語って方法論を導いてくれるんじゃなくて、日常生活の中でちょっといつもとは違う見方をして、新しい考え方を模索してみようっていうことの方が強かった。
そこで得た考え方っていうのが、日常生活の中であった「良いこと」を意識してみるというもの。今日一日に起こった「嫌なこと」を3つ挙げてくださいって言われたら簡単にできるけど、その逆で「良いこと」を3つ挙げてくださいって言われても難しい。カウンセラーいわく、これは俺が追いつめられてるからじゃなくて、そもそも現代人はこれが苦手で、普段「良いこと」よりも「悪いこと」ばかり意識しがちだから病んでしまう人が多いとのこと。この「良いこと」っていうのは、ご飯が美味しかったとか、そんな些細なことでもよくて、重要なのはそれを噛みしめて生きること。
この方法と、独自のストレス軽減策(マインドフルネス等)によって今ではすっかり元通りになった。
結論として、悪いことを意識すればそれだけ心も追いやられてしまうし、逆もしかりで良いことを意識すればそれだけ心も晴れるよっていう話。とはいえ慣れるまでに時間もかかるし、目の前に問題を抱えていながら「悪いこと」から逃れられないっていう根本的な問題もあるだろうけど、あくまで一つの考え方として参考にしてほしい。
カウンセリングで一番大事なことはアドバイスすることよりも傾聴することだから、そんな誰かの心理を操作するような話はないと思う。あと、こうすればいいというアドバイスも、押しつけになって相手の負担になったら意味がないので、比較的ハードルの低いことしか言わないと思う。
良いことを考えるっていうのは一種の認知療法なのかな。ポジティブ思考になるための。
私のストレスの大半は仕事関係。
過去にかなり活躍できて充実してたから、よけいに今うまくいかないのがツライ。
仕事って、労働の対価として給料をもらうためにやってるとドライに考えるなら、そこに問題が起きていないのに、内容的に自分が活躍できないってことで落ち込むのはある意味贅沢かもしれないけどね。
それでも、やり甲斐とか、自分がどれだけ役に立ってるかとか、考えてしまうわけ。
この仕事内容をこれだけの出来栄えでやれるのは自分しかいない、と思ってた頃は充実してた。
日本でとは言わないけど、九州の中ではこの仕事をさせたら自分はトップ数名に入るくらいの自信を持ってた。
でも今は、これやるの別に誰でもよくね?って思ってしまうからアカンのよね。
元々が、単純に書類を作って右から左に流すような事務作業なら、早さと正確さ以外が問題になるわけじゃないからこの種の悩みは発生しそうにないけど、私は事務員ではない。大いに事務もやるけどもっと幅広い能力が必要になる。
以前活躍できたころは、私が理系頭の文系人間というところや、議論も得意な平和主義者というところ、それに私自身のキャラクターが大いに役立ったんだけどな。今は、私の非常に苦手な、熟慮する時間のない瞬間的決断や、体力、フットワークの軽さ、課題の同時処理能力などが重要になるポジションだから全然だめ。
なんか私が愚痴ってるのが喧嘩板で誤解を招いてるから補足説明。
以前私は非常に得意な仕事を担当していて、おかげで大活躍していた。自信もついてたからかなり大胆なこともやっていた。
ところがその後、配置換えで、苦手な仕事を担当させられて参ってしまった。
以前の大活躍と今の役立たずのギャップが大きくて憂鬱だったけど、まぁそんなこともあるさ、とあまり悩まないようにして次の配置換えを待っていた。
ところが私の配置換え希望は毎回却下されて、4月からも相変わらず苦手なことを続けなければならない。もう若くないんだし、ずっと苦手なことばかりやらされてたんじゃ、せっかく得意なこともあるのにこれじゃ能無し同然じゃねーか。
ということでめっちゃ憂鬱なんです。
会話に参加するわけでもなく、ましてらくえんに書き込むこともしないで、向こうで一方的にコメントしてんの気色悪い。
死ねばいいのに。
学校だるいからさぼってあそんじゃえ!
ってことは私にはあったけど大人と仕事の世界ではそんなこと許されないんですかね
人生は仕事のためにあるわけではないと思うんだけれども
ひどい世の中
>>937
南雲さんの中では向いてない仕事かもしれないけど、他の人と相対的に見たら役に立つ人材じゃないんですかね
じゃなきゃ配属されないでしょうし・・・
>>938
好きかどうかに仕事の価値を見出すと、たぶんイチローぐらいの「好きさ」がないとやっていけない気がする
アドラー的世界観では他者貢献に価値を見出せれば幸せになるんだよと
仕事って要は社会貢献だからね、その対価としてお金をもらってるだけで
自分のための生きるとかよく聞くけど、実際よっぽど才能ないときつくなーい?と感じる
めちゃくちゃ自己中になれる傲慢さがあれば,そこまで才能なくてもそういう生き方できるかもしれないけど、大多数の日本人には多分きついよね
仕事なんて労働とお金のやりとりだけだと考えてるなー
社会貢献とかそういうことは考えたことないや
私はめちゃくちゃ自己中なのかもね、少し気をつけるべきかな?
まあまだ大学も卒業してない青二才だしこれから社会の現実をたっぷり思い知らされるだろうね
まだバイトもしたことないしさ
>>939
そうであればいいんだけど、私は出来ることと出来ないことの落差が大きいので、そうとも思えないんだよなあ。
それに加えてモチベーション下がる出来事もあったんだよね。熱くならなければって言ったけど、ますます気持ちが冷却するようなことが。具体的には書けないけど。
>>940
精神的にツライとか体力的にキツイとかがあっても、自分が何かに貢献できてる実感があれば力が湧くと思う。内容的あるいは能力的に貢献できなければ、力も出ない。仕事は「お金のため」が第一という現実はあっても、それだけではモチベーションを維持できない。もし月給100万あっても、人生を金に換える気はないから、やっぱり「やり甲斐」が必要になる。
具体的にやりたいことがなんにもないから仕事や勉強にやり甲斐ってのが感じないのかも
やりたいことを探さないとなあ
やりがいがあるというプラス要素があったとしても、精神的に弱いのならマイナス要素となり相殺されるだけでしょう。精神的に強ければ何をやっても卒なくこなせる。精神的に弱いというのは障害に対して対処出来ないからなので、やりがいがあっても障害に対処出来ないのなら、結局は同じ結果になるだけですよ。
自分の弱さを克服しようとせず、やりがいのあるものがないからと、外部のせいにしようとしてるだけではないですかね。
プラス要素>マイナス要素 ならば問題ないんだけどね。
精神的に強くなってマイナス要素が解消されれば、プラス要素が小さくてもプラス>マイナスが成立するけど、まあ現実そう簡単にいかないんで。
外的な要因と内的な要因の相互作用で起こることなので、内的要因をゼロにできれば解消されるけど、そりゃ言うは易く行うは難しだよ。
例えば今から小学校に入学したら何も不安はないだろう。クラス内では全てに関して万能になる。マイナス要素は一切無い。これは自分の能力が他を圧倒しているからだ。
現実世界でも、自分の能力が他を圧倒していれば何ら不安はない。勉強するだけで解決出来るものなのだから大して難しいものでもあるまい。
例えばプラス要素が10、マイナス要素が9とする。すると相殺されてプラスが1しかない。マイナス要素がなければ10倍の成果があるのに努力が結果と合致しない。能率からすれば問題が大きいと言わざるをえない。消極的事由を解消する事こそが問題解決の早道だろう。
具体的に勉強すればと言っているのでアドバイスにはなってますよ。
性格かー。自分を変える事が出来ないのなら、周囲を変えるしかあるまい。
周囲を変えさせるか、周囲を変えるか、変わるのを待つか。
医者はさ。治しこそすれ元に戻すわけじゃないから、完全な健康にさせるわけじゃないので全て賛同出来ないんだよね。手術をすれば傷跡になる。内視鏡技術であっても体を侵害する事に変わりはない。また、薬は必ず副作用がある。
最も優れた医術は自己治癒力で治させる、又は未病を治すものだと考えているので、西洋医学で万歳してるのだとしたら、考える余地はあると思うよ。医者を目指してるだろうけどいつか壁に当たるだろうね。
途中で変わるのめんどくさいからもう今年いっぱい平成31年でいいような気がしてきた。
…って、そういう面倒さがあるから、元号使う人が減ってみんな西暦を使うんだよね。
日本独自の年号を使うなら、皇紀(神武紀元)2679年を使おう。西暦との換算も660を加算減算すればいいから比較的計算しやすいし。
いまさらそうはならないけど。
https://www.youtube.com/watch?v=zYgKAzOoNsQ
この歌けっこう好きなんだけど、昭和15年(1940年)の歌だけあって歌詞がめっちゃ右翼。
「明日は新元号の発表ですぞ大都督!」
「待てあわてるな、これは孔明の罠だ」
…というわけで、4月1日にとうとう新元号が発表されます。
菅官房長官「新元号は…『楽園』です! 出典は知りません!」
こうして、5月から「楽園元年5月1日」などに変わることが決まりましたが…
4月某日。
太郎君は、魔貫光殺砲の使用免許の更新手続きに行きました。
ところが…新しく受け取った魔貫光殺砲の免許証に、こう書いてあるではありませんか!
『有効期限 平成36年4月某日』
怒った太郎君。
「おいっ、平成36年なんて存在しねぇだろうがーっ! 新元号の楽園6年の免許をよこせ!」
「それが平成36年の免許しかお渡しできません」と、緑色の肌をした冷たい事務員。
「なにをっ、魔閃光ーっ!」
どっかーん!!
さて問題です。太郎君はなぜ魔貫光殺砲を使わなかったのでしょうか?
じゃない、
なぜ「楽園6年4月某日」が期限の免許証を発行できなかったんでしょうか?
はい、4月1日の新元号発表は、5月1日から「楽園」という元号になりますよ、というお知らせです。つまりこれは予言のようなもので、新元号「楽園」はこの世にまだ存在しません。この世に存在するようになるのは、今の天皇が退位し、皇太子が即位した瞬間であって、それまで「楽園」という元号は存在しません。
存在しない元号の有効期限で魔貫光殺砲の免許証を発行することはできないんです。
なので、4月の間は、次の元号が分かっていても「平成32年」、「平成33年」といった書き方をします。
…たぶん、そうなるはず。
いよいよ本日公表ですな。
平成が決まったとき、さんざん「違和感がある、昭和のほうが良かった-」と言ってた私も、いつの間にかすっかり平成に慣れてしまった。
どんな新元号が発表されても、「違和感がある、平成のほうが良かったー」って思うんだろうなぁ。
あとは…本日発表の新元号の「さらに次」まで、私が生きているかどうか。
皇太子より年下とはいえ、受ける医療の質が全然違うし、不摂生だからなー。
秋篠宮よりも年下なので、最大限、悠仁親王の元号まで見届けたくもある。悠仁親王の次はもう絶対不可能なので。
よく炎上って言葉が使われるけど、例え人を殺して金を奪って、そのうえ罪をなすりつけるような極悪非道な人間がいたとしても、ひたすら叩きまくって二度と社会復帰させない行為も愚かしいと思う。一度犯した罪って例えどんなに小さかろうと、法律で裁かれないほどの些細なものだろうと、決して許されるべきではないと思うんだけど、それはあくまで、その罪を忘れずに、今後二度と同じ罪を犯さないように、また誰かが二の舞にならないように、今後よりよくしていくための取り組みなわけじゃん。
ちょっとスケールが大きくなるけど、人類がよりよい文明であるためには、個々が文明の一部として優れていることが望まれるけど、例えそれが難しくても、最低でも文明の発展を妨げる存在(例えば犯罪者)であってはいけないよね。でも現実は理想的通りにはいかないわけで、当然そんな存在が地球上にはあふれてる。
彼らに対してどのように対処すべきか。
ここが意見の別れ目になってるように思える。
このまま害悪なものとして社会から排除するか、
成長させてより優秀にさせるか。
今の世の中、社会的な制度とかは別として、世論で言えば前者に近い価値観が浸透してるように感じる。抗がん剤でガン細胞を死滅させるのと同じで、文明という体を守るために犯罪者というガン細胞を排除するのって、確かに合理的だと思う。ガン細胞を正常な細胞に戻すのってすごい時間も費用もかかるし、それだったらいっそのこと排除してしまうのが手っ取り早い。同じ結果になるのなら、当然楽な方を選びたがるもの。
そこで”人権”の登場。
守るべき文明に害を成す輩は排除されて当然だ!
一見筋の通った理論に見えるものの、よくよく考えると矛盾してるんだよね。
”守るべき文明”の中に、なぜか犯罪者等が
含 ま れ て い な い ....。
これこそが矛盾してると指摘されそうだが、そんなことないんだな~これが。
文明というのは、個々の人権が分子となって形作られている。つまり犯罪者は犯罪者である依然に人間なんだ。生まれてから完璧な人間なんていないし、いたこともないし、未来永劫生まれることもない。人間は備わっていない部分を補いながら、よりよい人間に育っていった。つまり成長してきたんだ。悪い部分を良い部分にしていくことが成長することの本質なら、犯罪者を更生させることも成長のはず。同種であることから道徳的な観点で人権という概念が生まれ、それを理由に成長の糧を与えられて生きてきたにもかかわらず、同じ人権が与えられているはずなのに、犯罪者というだけでそれが剥奪されてしまうのは差別ではないのか、と思うわけ。
でも、ここで1つ疑問が残る。
確かに犯罪者たちの対処法は確立できたものの、それによって傷つけられた人たちはどうなる?
犯罪者に人権なんて必要ねえ!
人としての権利を持つためには、それに相応しい能力を持ってることが前提なんだよ!
タダで人権がもらえると思うなよ!
大概の人は大体こんな考えだと思うんだけど、この考えを助緒させてるのは”恨み”という感情論が厄介。結局のところ、俺は感情に身を任せて、ハンムラビ法典の復讐法みたいなことを正当化するのは間違ってると考えている。んだけど、俺は今ここで行き詰まってるんだ。
理屈で言えばこうなるけど、恨みという感情はどうなるわけ?
被害者には泣き寝入りしろと?
なんて言われたら、俺はちゃんと言い返せない。心理学的にストレスを軽減させるとか、裁判で合法的に罰を与えるとか、そんなことで解決できないものが残ってしまう。もし俺の理屈がまかり通るなら、被害者たちのわがままってことになる。
いや、それよりも”罰”という概念の全否定になってしまう。
この結論にたどり着いた時、裁判によって下される裁きは、犯罪者たちの更生と、被害者たちに与えた傷の代償を払うための手続きだと思った。被害者たちから奪ったものを返すか、或いはそれと同等の価値を持ったものを払って、文字埋め合わせるためだと。
でも、それだけじゃなくて、被害者たちの恨みのためという意味合いも含まれてるとしたら....?
そもそも裁判って、いつそんな上品なものになったんだ....?
歴史を振り返れば、むしろ復讐法が原点になっているのでは....?
言ってる自分でも、なんだかポエムじみてて恥ずかしくなってくるけど、これでも大真面目なんだよ(´・ω・`)
ネット上でよくある「炎上」なんて、ようするに「リンチ(私刑)」じゃん。ネット上で終わればまだしも、個人情報を特定してリアルを叩く場合もある。
その内容も、不謹慎だとかいうことで、個人の価値観の問題であって違法行為とは限らない。法的には言論の自由とかの範囲に収まってる場合も、一方的な道徳の押しつけで炎上させたりするよね。それは単なるスケープゴート、いじめでしかない。裁判起こしたら叩かれたほうが勝つだろうけど、民事なので警察が捜査してくれるわけじゃないし、相手を特定できずに訴訟は起こせない。それを見越しての炎上なんだよね。
完全に違法、しかも極悪非道な場合であっても、やはりそこは「法」で裁かれるべきだ。だからなおさら、法律の内容が重要になる。
>犯罪者に人権なんて必要ねえ!
>人としての権利を持つためには、それに相応しい能力を持ってることが前提なんだよ!
>タダで人権がもらえると思うなよ!
実際の世論がそうなのかどうかは知らないけど、「人権」は、生まれながらに全ての人間がタダで持っている権利のこと。タダでもらえる権利、というより誰に与えられなくても自動的に持ってる権利のことを人権というのに、タダでもらえると思うなって言うならそれは完全に矛盾。
このあたりのことは、比較的最近、議論板で死刑制度に関して主張してる。
http://jeison.biz/casphy/bbs/read.php?cate=debate&mode=thread&no=9518
私のレスは21から先。
被害者感情というものは確かにある。被害者感情を優先させると、刑はただの復讐になってしまう。けど、たとえ加害者が更正可能としても、加害者に社会復帰の支援という「福祉」を与えるだけで終わると被害者に泣き寝入りを強いることになるから、復讐的な側面も不要とは言い切れないよね。
専制君主制での法は、君主のための法でよかった。治安維持も、被害者感情への配慮も、体制維持が究極的な目的で、その目的のためにどうするのが最も合理的かと考えればよかった。ある意味単純思考できた。
民主主義だと、国民のための国家で、国民のための体制で、国民のための法だから複雑になるよね。被害者も国民なら、加害者も国民(まあ片方または両方が外国人の場合もあるけど)。どっちも生まれながらには平等で、ただ加害・被害の事実を公平に評価しないといけない。じゃあ何が公平なんだっていうことになる。専制君主制の、人間が生まれつき不公平なのが前提の法なら、いくらでも不公平な制度を作れた。
それは本当に法律を考えるうえで大真面目で考えないといけない部分だと思う。
自身のIQが全人類の上位2%以内の者のみが入会できるMENSA....実際のところ、入会テストを受けた者が全人類の2%だけだった説。
普通にあり得そうじゃない?(笑)
ていうか、約75億分の2%、つまり1千5百万人なら、全人類が受けたわけでもないってことも考えると、さすがに今すぐは無理だろうけど、脳トレでもしとけば普通に入れるんじゃね?(笑)
全人類の2%だったら100人いたら2人入れるわけだから、上位には違いないけど別にステータスになるほどじゃないじゃん。
全人類と言ったら意識不明の重病人も認知症患者も含まれてる。
てかどういう基準なのか知らないけど、IQが普通に「精神年齢÷生活年齢×100」なら、ちょっと成長早めな幼児は簡単にすごく高い数字が出てしまうのだが。
全人類の2%も入会テスト受けないだろ…ってか全人類の2%もその存在を知らないだろ。
あと75億の2%なら1億5千万。
選挙カーってただただうるさくてただただ迷惑だよね。
選挙活動はいいこと、っていうか寧ろすべきことだとは思うけど、電子機器やメディアが多様化したこのご時世にわざわざアナログな手段使うメリットってどこにあるわけ。
例えば、それどれの党ごとにYouTubeでチャンネルを作って動画をアップロードするとかできるじゃん。
そうでなくたって、ネット自体20年も前からあったし、何ならテレビやラジオは半世紀以上前からあったわけじゃん。
それをフル活用しようともせず、未だに選挙カーってバカじゃねえの?w
高齢者にはネットの使い方を知らない人がたくさんいる。
この高齢化社会、高齢者の票が当落を大きく左右する以上、アナログなやり方はやめられない。
ネットは能動的に見なければ情報が入ってこないけど、選挙カーなら受動的に、嫌でも情報(候補者の名前)が入ってくる。
テレビの場合は枠が限られてるから、それだけでは選挙カーを使う人にアピール力で劣る。
それに世の中には、「この人に投票しよう」という意見はあまり持ってないけど「投票は有権者の責任」として、棄権せずに投票する人もいる。そんな人が誰に投票するかというと、なんとなく記憶に残ってる名前。これに関して、選挙カーでの名前の連呼が効く。
>>968
さすがにアナログを全否定はしないよ。
ポスター貼るなり、チラシ配るなり、なるべく目に触れやすいようにする方法としては理にかなってるとは思う。
でもそれにしたって選挙カーはなくね?
>なんとなく記憶に残ってる
こんな理由で投票するなっていうのは置いといて、選挙カーってほんの一瞬じゃん。いくら音量が大きいからって、スピーカーの後ろ側ってびっくりするくらい音が聞こえなくなる。しかも移動しながらだしね。
デジタル・アナログ依然に、まず選挙活動として極めて無意味と言わざるを得ないよ。
そんな無駄な一瞬のためにわざわざ騒音まき散らすの止めてもらえませんか....。
せめて駅とか、そういう公共の場で、なるべく近所迷惑にならにようなところでやってもらえませんか....。
候補者は当選するために必死だから、ありとあらゆる手段を使うよ。
もちろんポスターも使うし、チラシも配る。それもやるし、選挙カーも使う。法律的に許される全ての方法で票を集める。そうでなくては勝てない。
実際には、危険を承知で法律ギリギリの活動とか、こっそり違法行為とかまでやってるのに、合法的な手段である選挙カーを使わない道理がない。
はっきり言ってうるさくて迷惑なんだけどね。でもボリュームも法律で上限が決まっていて、その範囲内なら許されてるからね。
選挙カーの騒音問題って実はかなり深刻に起きてる。学校の周囲を巡回されると授業の邪魔になる。住宅地でも、せっかく寝入った赤ちゃんが起こされて泣き出す。一部には大音量が苦手な聴覚過敏の人がいて、場合によってパニック状態になったりする。
ところが、嫌でも耳から入ってくる名前が記憶に残ることで、得票数がある程度上がるのも事実らしい。
私は正直言って、政治家に倫理道徳なんて期待するだけムダだと思ってる。当選するためなら、どこかの他人がどんな被害にあおうと平気な連中だと思ってる。そして、それくらい冷酷でなければ、政治の世界で生き残れないし、国や地域に利益をもたらすこともできないと思う。非情さがないと政治なんかやってらんないと思う。
だから彼らは、迷惑な騒音をまき散らすことで10票増えるなら、5人の犠牲者(それは5票減という意味でしかない)なんて厭わないと思うんだ。
今後勉強で必要になるタブレットが手元に届いたんだけど、ショートカットでGoogleかYouTubeしか使ったことがない俺が簡単に使いこなせるわけないよね。
スマホみたいにsimがなくても、Wi-Fiに繋がなくてもネット使えるのがパソコンだと思ってるんだけど、ぶっちゃけタブレットって何。
見た目以外の区別が全然つかなくて困る。
タブレットっていうのはタブレット型PC。
キーボードを装備してなくて画面からタッチ入力する仕様のパソコンのこと。見た目はスマホを大きくした感じだけど、中身はパソコン。まあ実際の操作感はOS次第だし、タッチ画面から入力する点もあって、iPadとかAndroidのやつはほとんどスマホの使用感になりそうだけど…。
パソコンだってネットにつなぐには有線なり無線なり必要だよ。据え置き前提のA4ノートは、Sim使わないけど、Wi-Fiなり有線接続なりしないとやっぱりネットにつながらない。タブレットの場合は持ち運び前提だから接続方法もスマホと同じはず。まぁ私はタブレット使わないからはっきり知らんけど。
説明がごちゃごちゃしたけどタブレットってのは最初に言ったように、キーボードの無いパソコンだよ。
最近では2in1といって、キーボードを取り付けて据え置き型にもなるし取り外してタブレットにもなるタイプのパソコンも人気だよね。2in1は主にWindowsか。
既婚済みの学歴主義者が夫・妻の学歴にガッカリたという旨のSNSへの投稿が炎上したという例をいくつか見てきたんだけど、単純に高学歴という肩書きに拘っているわけじゃないっていうケースもいくつかあるんだよね。
高学歴である必要はないけど、あまりにも知的レベルが低すぎて、そこを学歴と結びつけちゃうっていうパターン。別に学歴がどうこう言ってるんじゃなくて、日常生活で頭が悪いと思うような場面がいくつもあることを嘆いてるだけなんだよ。
ちなみに、俺は高校の経験から、偏差値・学力が低い人は人間としてのあらゆる能力が欠落しているものだと思っているから、感覚的には分からないでもない。学歴が高ければ高いほど優れた人間であるという単純な話はないのは十二分に理解してるけど、低ければ低いほど出来の悪い人間が多くなるというのは自明って言ってもいいんじゃないかな。
でも仮に低学歴の人がいても、ゴミ人間だなって突っぱねたりはしないけどね。中卒でも舞台劇の役者になったり、美容師になったり、立派な人生送ってる人ってゴマンといるし。ただ統計的に見ればそうなるんじゃないかって話で、結局のところ中身を見て評価しなきゃいけないってところに行き着くってことはちゃんと理解してます。
そのSNSの投稿がどんなのか知らんけど、そんなに学歴にこだわるなら高学歴の人と結婚すればいいだけで、相手が低学歴だと知ってて結婚して後からぐだぐだ言うなんておかしくない?まさか結婚前に相手の学歴を知らなかったわけないし。
もちろん高学歴でも不心得な人はたくさんいる。でも確かに、学歴の高い人はそれなりの教養があるわけで、教養のある人のほうが傾向としてはモラルも高いから、学歴とモラルは正の相関はあると思う。もうひとつ、学歴の高い人は社会的地位も高くなりやすい。社会的地位が高いと、世間体を気にするようになる。つまり、中身が実はダメでも見かけはリッパにしようとする。
一流大学を出て社会的評価の高い仕事をしていたら、それだけカッコよさにこだわるようになるというか。
ナチュラルの言う「出来の悪い人間」の意味がはっきりしないんだけど、舞台劇の役者にせよ美容師にせよ、しっかり働いてる人だよね。そういう人が立派だというのは同意。その一方で、身体的あるいは精神的な障害や病気が原因で、学校にも通えなかったし仕事も出来ないって人もいる。でも心がけはしっかりしてて、能力的には劣っていても、自分の障害や病気と一生懸命戦ってる。そういう人も立派だと思う。そこんとこも、ナチュラルは反対しないんじゃないかな。
ナチュラルが一番「出来の悪い」と評価してそうなパターンは、健康体であるにもかかわらず投げやりでやる気がなくて、その結果学歴も低くなり、周りに迷惑ばっかかけてる(真面目に生きてる人の邪魔をするような)連中だと思う。そういうのは私も出来が悪いと思う。
ただ私はそれも全否定できないんだよ。
というのは、そんな出来の悪い人たちの多くは、虐待を受けて育っていたり、劣悪な家庭環境だったりするんだよね。そりゃもう子供の頃から壮絶な経験をしてきてて、自分自身にも他人に対しても世の中に対しても絶望感しか持てなくなってるような。それを知ると、結果としての「出来の悪さ」を、本人のせいばかりにはできなくなる。
私も、ナチュラルも、じぇいそんにしても、一般的かそれ以上の家庭、最低でも「まともな家庭」に育ってると思う。まともな家庭で育ってたら、本人の出来の悪さは本人のせいみたいに簡単に、というか自然に結びつけるわけだけど、猛烈なマイナスからのスタートだったり、努力しても足を引っ張られまくってきた結果として出来が悪くなってしまった人を、どれだけ突っぱねられるかだよね。
まあどういう事情であれ、めちゃくちゃな行動をする人を配偶者として選べるか、って言われると無理だ。ついていけん。結婚相手となれば、相手が見つかるかどうかは別として、いろんな条件を設定する自由がある。その中に学歴を含める人がいたって、それは個人の自由。
けどパートナーではなく一人の人間として見た場合に、どこまで突っぱねられるか、どんな人を切り捨てられるかっていうのはすごく難しい問題だと思う。
お札(おさつ)が新しくなるということで、ちょっと疑問に思ったんだけど、お札にその国の偉人をプリントする文化ってどこで、どのようにして、なぜ始まったんだろう。
日本円以外にも同じようなものがあるから、日本ではないどこかの国が発祥だと考える。
そういう歴史は知らないけど、推測すると、古代に権力者が金貨に自分の肖像を彫ってたような、そういう部分が発祥じゃないかな。目的はもちろん、自分の富と権力を誇示するため。
昔は貨幣の「貴金属としての価値」イコールお金の価値で、そこに自分の肖像を彫ってたのが、国の開祖など自分の先祖とかそれに協力した英雄だとかに広がって…紙幣ってのはずっと後の産物だからコインが元だと思う。紙幣も、紙そのものに価値は無いから最初は兌換紙幣だったけどそれに転用されて、今のような不換紙幣にも受け継がれたと。
コインに肖像を使うのは西洋のやり方かな。中国では文字を彫ってたから。
まあ外れてたらゴメン。
私はお金の歴史って面白いと思う。
一番最初は、物々交換で必要なものを手に入れてたと思う。それが貴金属を使った「お金」になったのは、モノの価値が抽象化されたんだよね。そして長い間、貴金属としての価値そのものがお金の価値だった。金貨にしても銀貨にしても銅銭にしても、お金をつぶしたり溶かしたりしても、金属の価値がお金の価値だったから同じだった。
次に紙幣が現れた。紙には何の価値もないけど、金本位制で、紙幣を銀行に持って行けば額面の価値の金に交換してもらえた。お金が紙で、貴金属そのものじゃなくなったことも抽象化だと思う。そして現在の紙幣。国の信用が背景にあって、貴金属とも切り離された。
さらに預金通帳の額面になると、紙幣ですらない数字になった。さらに進んで電子マネー。もはやお金は、ただのデータと化した。預金はおろせば紙幣になるけど、将来的に紙幣や硬貨が廃止されて完全電子化すれば、お金はデータが全てになる。なんかお金の歴史って、具体的な物体からどんどん離れて抽象化されていく歴史みたい。
人間自身は物質世界で生きてるのに、モノを手に入れる方便としてのお金がデータ化して大丈夫かなって不安。金本位制ではハイパーインフレとか起きないでしょ。貧しくなればお札を発行できなくなるから。電子マネーの時代になったら、経済がさらに複雑化しそう。そのうえ仮想通貨まで流通すれば、もう国家が中央銀行でお金を管理するシステム自体が壊れるよね。そんな時代の経済学ってどうなるんだろう。
一万円札の肖像画が福沢諭吉になったとき、私は手元にあった聖徳太子を使うのをやめて保存した。といっても、子供の頃の話だからそんなに持ってないけど。
聖徳太子の一万円札って、福沢諭吉よりもサイズが大きいし、そのぶん威厳を感じる。変わるたびに威厳がなくなるように感じる。
一万円札と五千円札が聖徳太子で、千円札が伊藤博文。五百円札が岩倉具視。岩倉にしてみれば伊藤より下なのは納得できないかも。そして百円札が板垣退助。さすがに、百円札を使った記憶はないけど。この時代のお札は全体的に重厚感があったなぁ(主観)。
なんかお札の価値で、慶応大>津田塾大>北里大になってるw
スプートニク・ショックを起源としたアメリカとロシアの宇宙開発戦争って、どちらも軍事利用を目的として始めたものだって何かのフィクションで聞いたんだけど、これって実話?