どうして私がそんな考えになったかというと
「生きる価値」なんてことを考えてると、どうしても「誰かの役に立つ人が価値のある人間」という考え方にたどり着いていく。
でも、「生きる価値のない人間」の役に立ったら、それが自分の生きる価値になるのか?って考えると、価値のない人の役に立っても価値はないことになる。価値のある人の役に立ってこそ価値が生まれる。
じゃあその「価値のある人」の価値はどこから生まれるのか?これも誰かの役に立つから?でも価値のない人の役に立っても価値が生まれないことは変わらない。価値のある人の役に立ってこそ、その人の価値が生まれる。じゃあその「価値のある人」の価値って何?
…って無限に問いかけてると、結局、価値の源泉なんてどこにもなくて、「すべての人間が無価値」という答えにたどり着いたわけ。でもその結論はおかしくないか…すべての人間が無価値なら、なんかアニメのおかしな悪役みたいに人類全部滅びてしまえ的な方向に行っちゃうじゃん…。
結局、誰か1人にでも生きる価値があるとしたら、その価値は生きてること自体にしか源泉はなくて、そうだとしたら人間すべてに生きてる価値がある、ということになったわけです。
南雲の言ってることと少し被るけど、生きる意味なんて何もないと思ってるんだ。というか、そもそもがそんな問いかけ自体がナンセンスだと思ってる。
だってただの自然現象だから。
答えなんてないんだよ。
何で人間が存在してるのかも、何で世の中の物理的現象がこういう仕組みに定められているのかも分からないけど、そんなことどうだっていいじゃないか。人生楽しんだもん勝ちなんだよ。
ニーチェの永劫回帰をご存知でしょうか?
この世は始まりから終わりまでの1通りを無限にループしていて、あなたの人生は無限のうちのx回目だという理論です。これが提唱されたのは18世紀だったんですが、いくら幕末時代とはいえ、科学界が急激に成長し始めた時代にしては、なんともまぁぶっ飛んだ話ですよね。しかし、彼は何も本気でこの理論を唱えていたわけじゃありません。むしろ彼は誇大な妄想とさえ言った。
では彼は一体何がしたかったのか。それを知るためには当時の時代背景を知らなければなりません。
宗教とは元々、明日食べるパンがあるかどうかという時の唯一の拠り所が宗教でした。例え今は苦しくても、良い行いをすれば神のご加護によって救われる。元は道徳を肯定するいいものだったんです。しかし、この世には宗教の権力者にのし上がり、この世界を我がままにせんとする不届き者もいました。魂は善行ではなく、お金の寄付によって救われる。この街のどこかに悪しき魔女が潜んでいる。彼らは自分たちの都合の良いように、勝手に宗教のルールを書き換えてしまいました。そんな中、ついに民衆の怒りが爆発します。彼らは立ち上がり、手を取り合い、幾多の犠牲と引き替えに自由を勝ち取りました。
もう彼らの言いなりにはならない!
自分たちの生き方は自分で決めるんだ!
こうして宗教の時代は終わりを迎え、時代は論理と学によって真理を追求せんとする合理主義の時代は幕を開けました。
一通り目を通しました。
そうですよね、答えなんてないですよね(;_;)
なんていうか、月単位でこういうことを考えてしまうのでうめちゃん、南雲さん、ナチュラルさんの意見をゆっくり読んで、なるほどと思いながら今この文カキコしてるんですけど如何せん語彙力がなくて…、
でもありがとうございます
今まで唯一の拠り所としていた宗教も、もはやもぬけの殻です。神さまだの救いだの、そんな根拠のない教えなんて戯言に過ぎません。これからは自分たちで物事を見て、聞いて感じて考えなければなりません。とはいえ、科学も技術もそんなに発達してない時代です。空の向こう側やミクロの世界を見たり聞いたりする術はありません。そこで彼らは、まず哲学することから始めました。正義って何だろう、愛って何だろう、人々は自らに問い、寝る間も惜しんでひたすらに考えました。しかし彼らは、触れてはいけない禁断のタブーに触れてしまいます。
”真に価値のあるものは何か”
ふん、そんなの決まってるね。神さまも魂もないんだから、そんなもんないね。しょせん生まれては死んで消えゆく存在だ。何の意味もn....あれ、それじゃあ身体を痛めながらも必死に働いているこの俺は一体何なのだろうか。人類の発展のため?家族のため?自分が幸せになるため?でも、そんなものにさえ意味がないのなら、この生そのものだってあってもなくてもいいようなもの。俺たちは一体何なんだ....。
このように価値観を見いだせなくなったひねくれた思想のことをニヒリズム(虚無主義)と言います。ニーチェは宗教という人間の拠り所を無くしたことで、ニヒリズム文化が広まってしまったことを皮肉って「神は死んだ」と言いました。
ニーチェはこの腐りきった世界を永劫回帰によって変えようとしたのです。
人生に価値がないのだとしたら、もしその人生が未来永劫、ずっと回帰し続けるとしたらどうだ。起きて、土を耕し、食べてはクタクタになって寝る。そんな無意味な行動を何日、何週間、何ヶ月、何年、何十年と過ごすどころか、その人生を無限に繰り返すことほど苦痛なことはない。ならば、また繰り返したいと思えるような「今」を過ごすべきだ。例えこの先に災厄が訪れよとも、病気で悶え死ぬことになろうとも、そんなことは関係ない。
「今」というこの瞬間をどう生きるかなのだ!
僕はどんなことも理屈によって追求するタイプですが、世間一般の人はたいてい「屁理屈だ!」とか言ってきますが、「何も考えずに屁理屈だ口答えだ言って、思考停止してるお前のそれが屁理屈だろが!」って思います。
ネガティブな人っていうのは、優しすぎるから、こういう(↑)のような考え方をすることは開き直りのようで抵抗してしまうんですね。でも理屈で片づけるってことは、如何にひねくれるかが大事なんです。
「先生の言うことを聞きなさいって言うけど、じゃあお前は先生が人を殺せって言ったら殺すんだ?(笑)」
如何にも小学生が思いつきそうな屁理屈ですが、でも間違ってはないですよね。「そういうものだよね」と周り合わせておけばよいものを、僕は世間の空気をぶった切って「いやそうじゃねえだろ!」と言ってやりたくなるKYです。
いや、だって間違ってないやん。
正しいことを正しいままに言ってるだけなのに、お前らは一体何が不満なの?
こういうひねくれ者に言わせれば、>>877なんて簡単です。
「はあ?こっちはこっちで幸せになるためにやってんのにイチャモンつけてきてんじゃねーよ。自分が幸せじゃないからって、そうやって他人の幸せを妬んで攻撃するお前が幸せになれるわけねーだろ。文句言ってる暇があるんなら、どうやったら自分がが幸せになれるか、その腐った脳みそで考えてみればぁ~?(笑)」
いや、実際に言うわけにはいきませんが、要はこてくらいの開き直りとひねくれさってあってもいいんじゃないかなって思います。例えひねくれていようが開き直っていようが、正しいこと言ってるんだから、どこにも問題はないんですよ。
ニーチェはヨーロッパの都市化、価値合理主義に対する反抗という文脈の中で哲学を探求した人だから、むしろ虚無主義を唱えた側だし「この瞬間をどう生きるか」とも言ってないよ
「私はこう生きた」という自我原則がそもそも力への意思によるただの虚像の固定化(パースペクティビズム)であって、それは変化し続ける生に対する反感であり否定されないといけない、というのがニーチェのとった立場だよ
多分ナチュラルはニーチェの「永劫回帰」と東洋思想の「輪廻」を混合してるんじゃないかな(クソ揚げ足取り)
伝統的価値観はあくまで後付けの偽物、自由な実存の現実への積極的参加が大事やぞって主張なら、サルトルの実存主義を引き合いに出すべきやろな(クソリプ)
ネットも少しはストレスのはけ口になるやろけど
本当に悩み事があるなら多少金払ってでも面と向かえる長期のカウンセリング受けたほうが有意義やぞ
金がなければ市営のホットラインとか青少年サポート事業とか冷やかし半分でゴリゴリ使うべき
自分のサポーターを探すのも現代人にとってひとつの誇るべき能力と思ったらいい
私はあちこちで言ってるけど、夏目漱石の『行人』が、10代最大の愛読書だった。
『行人』の主人公・一郎はメチャクチャ頭が良くて博識なんだけど全然救われないんだよね。哲学に関しても宗教に関しても深い知識を持っていて、しかも自分自身の思考力も極めて高い。それでも全然救われない人なんだよ。
そして、そんな自分が何故救われないのか、その理由も正確に分析している。
一郎は、「図を拡げて地理を調査する人」(救いの道を見出す人)だ。それなのに、「脚絆をつけて山河を跋渉する実地の人」(実際に救われる人)になろうとする矛盾を犯している。一郎は「明らかに絶対の境地を」発見しているのに、「僕は迂闊なのだ。僕は矛盾なのだ」と言う。
これはまさしく、どれほど正しい救いの道も、それを発見することと実践できることは別物だということなんだよ。
だから私は興味の対象とか参考として哲学や宗教に接することはあっても、救われるため、幸せになるために哲学や宗教を勉強することは放棄した。
どんな救いの道も、自分の体、感性、命と同化してこそ活きるものだ。脳ミソの中にとどまってるうちは、知識であり教養であり学問であり…それだけのものに過ぎない。救いの道を自分のものにできるためには、先人の知識を自ら消化し、自分流に合わせて、自分と同化しないといけない。どんな高尚な思想、理屈も、それが人生において実践されるとしたら本人の「感性」に合わないと、机上の空論になってしまう。
私の時代は公的な悩み相談みたいな機関も無かったから、自分で10年考えて、20代半ばになってやっと生き方を決めた。偉い哲学者ではなく、自分自身で発見した生き方であり価値だから、まさに自分の感性そのものが哲学になっちゃってる。
知識は有用だけど、そのまま自分自身の解答にはならない。
一括でごめんなさい!
>ナチュラルさん
は……もしかして私、その禁断のタブーを月1、毎回触れていたのか…と思いました
優しいかどうかはちょっとよくわからないけれど、開き直りとひねくれさを持つと、なんていうのかな、もっと楽になれるのかな……?
その言葉はあれですね……心の中でひねくれるときにしか言えない言葉ですね……()
>びーびーさん
ですよね~…ホットラインとかは時間があわなかったりするので、近くの病院で高校の時、一度話を聞いてもらった時、すごくすっきりしたのでそこに頼ってみようかな、と。お金はちゃんとあるので…!あ、でもそこ長期カウンセリングできるのかな…、あとで調べよう…ありがとうございます…!でも大学で無料で相談って……少しうらやましい(うらやましい)
>南雲さん
くっ………なつめそうせきさんは存じあげてますが全然わからない(支離滅裂な発言)
20代半ばで生き方を決めたということは…………、まだ私人生のスタート時点じゃね??ん?????そこでつまづずいてる??うんちかな???
そうですよね、知識は勉強とかには必要だけれど自分自身のこう、人生の答えにはならないですよね……
まぁ、こんだけ長々と語っておいてなんですが、本当になんとかしたいなら医学的な対策を取った方がよろしいかと。
理屈で考え方を追求したって、そんなすぐ変わらないし、ていうか変わるんなら誰も苦労しないわけで....。
「○○だから気にしなくて良いじゃん」とかそういうのは無視して、手っ取り早くカウンセリング受けて、脳に地区センターされたダメージを取り除くことから始める方が、やっぱり良いですよ(・д・)
んーー。あれはストーカーなのか……、わかんない、でも最近おかしいよなぁ
ひとりで笑い始めるしなぁ
今だに待ってる(?)けど最近は近くには来ないし、後ろで歩いてるっぽいし大丈夫かなー
家を建てるお願いはじぇいそんにしようよ(押しつけ)
だってこんなに立派な掲示板を立てたくらいだから…ね?(無関係)