私はあちこちで言ってるけど、夏目漱石の『行人』が、10代最大の愛読書だった。
『行人』の主人公・一郎はメチャクチャ頭が良くて博識なんだけど全然救われないんだよね。哲学に関しても宗教に関しても深い知識を持っていて、しかも自分自身の思考力も極めて高い。それでも全然救われない人なんだよ。
そして、そんな自分が何故救われないのか、その理由も正確に分析している。
一郎は、「図を拡げて地理を調査する人」(救いの道を見出す人)だ。それなのに、「脚絆をつけて山河を跋渉する実地の人」(実際に救われる人)になろうとする矛盾を犯している。一郎は「明らかに絶対の境地を」発見しているのに、「僕は迂闊なのだ。僕は矛盾なのだ」と言う。
これはまさしく、どれほど正しい救いの道も、それを発見することと実践できることは別物だということなんだよ。
だから私は興味の対象とか参考として哲学や宗教に接することはあっても、救われるため、幸せになるために哲学や宗教を勉強することは放棄した。
どんな救いの道も、自分の体、感性、命と同化してこそ活きるものだ。脳ミソの中にとどまってるうちは、知識であり教養であり学問であり…それだけのものに過ぎない。救いの道を自分のものにできるためには、先人の知識を自ら消化し、自分流に合わせて、自分と同化しないといけない。どんな高尚な思想、理屈も、それが人生において実践されるとしたら本人の「感性」に合わないと、机上の空論になってしまう。
私の時代は公的な悩み相談みたいな機関も無かったから、自分で10年考えて、20代半ばになってやっと生き方を決めた。偉い哲学者ではなく、自分自身で発見した生き方であり価値だから、まさに自分の感性そのものが哲学になっちゃってる。
知識は有用だけど、そのまま自分自身の解答にはならない。