一郎の言う「絶対の境地」と親鸞の言う「自然法爾」とエックハルトの言う「離脱」が同じなんじゃないかと思って前のレスを書いた。
それは老子の「無為自然」にも通じると思う。
無為自然であれば大量殺人をすることもないし、止めることもないと思う。
我々と同じ人しかわからないと思うんだけど、無敵の人は無敵の人同士でなんとなく「同類だな」ってわかる。
今日同じような人と話したとき、「初めて会ったときから気づいてた」って言われた。
死ねない人も、気が狂えない人も、
案外淡々と暮らしている。
そうでない人には本当に頭がおかしいと思われるかもしれないけど、本当に僕らは同類を嗅ぎ分けることができる。
要するに、社会学で言うところの逸脱だ。
逸脱したものは逸脱したものを簡単に見つけられる。
この世界の何もかもがどうでもよいという態度、諦念の滲んだ目、差し障りのない口調が、それらのすべてが、僕らにそれを伝えるのだ。
逸脱者は逸脱者同士のほうが幸せになれるのだろうか。
逸脱者同士の恋というのは、ぼくが先述したような不思議な第六感に伴って生まれたもので、人間の本能から自然に生まれたものではないんじゃないだろうか。
それでも片方がそれを真実として捉えたとき、その恋はどうやって収拾をつけたら良いのだろう。
知り合ったばかりとか、友達の彼氏とか、そういう人に親しい友達リストに入れられてると嬉しいような疑うような気持ちになる
グループLINEって緊張するからいつもおじさん構文で話してたら、いつもどう話していたのか忘れてしまった
変にオタクっぽいと思われるんじゃないかとか、冷たく思われないかとか気にしてしまう
研究室の人と少しだけ話すようになったんだけど、それから大学で見かけたときに挨拶するべきなのかすごい迷ってしまうようになった
挨拶してもスンッで感じだと「しないほうが良かったのかな」って不安になる
本当は全員とグータッチぐらいしたい
全く化粧しないで、適当な服で常に歩いていたんだけど、知り合いができると誰似合うでもなくても化粧したくなる
格好だってテキトウなので会ったらすこし恥ずかしくもなる
これが…社会性…(?)
知り合いが誰もいないとき(僕はこれを、教習所のようだと感じた)はどんな格好で行ってもなんとも思わなかった
スウェットで登校したし髪も取り敢えずくくるぐらいだった
まず歩くときに、誰も僕のことを知っている人がいない前提で歩いてた
だからすれ違う人の顔なんて見もしないし、人間として見ないで景色の一部だった
その景色の中から急に一部分が動き出して、くり抜かれるようにしてこちらに話しかけてくるから、少しびっくりする
でも知り合いが増えるということは、帰属意識を少しは満たしてくれているのかな…
大学では世界とか、グローバル化とか、成長するアジア経済とか言うけどさ
僕の周りでは親さえ正月に帰ってこないとか、部活でのいじめのトラウマから逃げられないとか、めちゃくちゃな借金を返すとか、そういうことにみんな悩んてるのに、そんなこと言われても全く現実もないし、想像もつかないんだよ
といいつつ、年末コロナになりまして、ひたすら自宅謹慎の最中です
バイト先で年明けを迎えるはずが家でのんびり紅白を見ました。
正月もアルバイトのはずがずっと自宅でサブスクとにらめっこしています
年末年始、年中行事らしいことは何一つせず、社会を出れば大晦日だろうが正月だろうが昨日と地続きの今日なのだと感じるばかりです
40度になると頭がぐつぐつ煮えているような気がしてきて、自分の身体に熱源が収まっているんじゃないかって思えた
熱は程なくして下がったんだけども、今になって味覚が消えてしまった
何を食べても熱い冷たい柔らかい固いの区別しかつかなくて、少し面白い
僕は食に興味がない方だけど、味がなくなると本当に食欲がなくなる
興味がない興味がない言っていても、味はちゃんと楽しんでいたんだなと思った
あけましておめでとうございます
やっぱりコロナは大変ですね…
熱が下がってもそれで終わってくれない
味覚障害はオミクロン株になってからあまり特徴的な症状としては言われなくなってきてますが
やっぱりあるんですね…
どうかお大事にして下さい
有り難う御座います!🙌✨
そう言えば、
なぐさんのキャップの
『則天去私(そくてんきょし)』
って、
かの夏目漱石が
晩年に到達した文学観を表す語と
某サイトに書いてありましたが、
何とも深い四字熟語なんですね~😮
この間新宿の漱石山房記念館に行ってきた。
思ったより住宅街で、こんなところに漱石が住んでいたんだと意外に思う
漱石はあんなに最期神経衰弱が進んでいたようなのに、自殺じゃないっていうのが面白い
「変身」のカフカも同じようにひどい絶望を抱えていたのに、自分から死ぬことは選ばなかった。「一生を自殺への誘惑を払いのけることに費やした」とまで言ったのに死ななかった。確か、「死ぬということは、今いる棺桶から別の棺桶に移るようなものだ」とも言っていた気がする。夏目漱石の「則天去私」もそういうことなんだと思う。
結局のところ受け入れるというか、ただそこに存在するということ以外に救われる道がない
そういえば先日誕生日でした
人との関わりが多少増えたから、今までにないぐらいの人に祝ってもらって嬉しかった
姉はシャネルのNo.19をくれた。シャネルの誕生日が8/19だったことにちなんでこの名前らしい。シャネルが私生活で使っていたから、しばらくは発売されなかったとか。
それを聞いて姉はNo.19を僕にあげたいって思ったらしい。これが本当に上品な香りで、形ないものなのに美しいと思える。だからこそ、本当に自分が持つべきものなのか、というかこんなものが似合う人間になれるのか、と不安にさえなる。
シャネルといえばchanceが有名だけど、嗅いだことのある人ならわかるだろうがピンクの瓶のものとかは本当に可愛らしい匂いをしている 形容するときに「良い女の匂い」とか言われるのも合点がいく
No.19はそれよりも凛としてて、嗅いだ瞬間「これだ」ってなるのに思い出すことがあまりできない
夏目漱石と田山花袋どっちも好きなんだけど、自然主義代表と反自然主義代表みたいな二人が好きなの結局どうなの???となる
ただとにかく抽象、絵空事だとしてもその構造とか成り立ちが現実と等しくなることなんてざらだと思う
授業と授業の間に誕生日プレゼントとして一升瓶の酒渡されたせいで、酒傍らに授業受けてるみたいになってしまった
カバンにも入らないので終わっている
ずっと恋愛相談聞いてた友達が、好きな子と付き合えたらしい
それからひたすら惚気を聞かせられている
そのお礼として「魔王」を貰ったんで今飲んでるんだけど、美味しくて色んなやる気がなくなってしまう
僕は炭酸が飲めないので大体焼酎を飲んでいるんだが、一番飲んでる! って感じがして芋が好き