に
書き物:https://rakuen.jeison.biz/novel/read/?487
サイト:http://bbbbbkip.genin.jp/
医者にADHDで障碍者手帳の申請勧められてるんだけど、抵抗あるなあ
現状も処方も変わらず、ただ福祉サービスが受けられるだけなんだけど、この一手で親戚や世間からの評価が一変するって展開が読めてる
めっちゃ露悪的な表現になるけど
どうせならコミュニケーションが苦手な代わりに一芸に秀でてるみたいな、ステレオタイプの障害者になりたかった
フォレストガンプとかATARUとかZ武とか、障害者が人格なり能力なり、何事かに優れている者の表象としてメディアに扱われるのは
健常者が自分にかかる負担をカバーするだけの利益を障害者に見出したいからなんだろうなあ
あるいは24時間テレビのあれみたいに、存在そのものを感動エンタメという利益に還元して消費してしまう
シンプルに言えば、人権思想と功利主義を都合よく両立させるための幻想って感じやね
人間は損得勘定が大好きなんだけど、同じくらいヒューマンドラマも大好きで、この矛盾する二つを合理化した結果非実在の偶像をでっちあげる事で合理化に成功したというか、そのつもりでいる
でも事実として無能な障害者はいるんですよここに……
グローバル化で競争が激化するっつってんのに、薬代がかかるだけの非生産コミュ障を養おうという精神的猶予と経済的余力はあるのか
どうなる日本!(他人事)
コミュ障だけど一芸にめちゃくちゃ秀でてるってのは
どっちかというとASDのイメージかな
20年ちかく前に仕事で会った精神科医が
「実は私もADHDなんです!ADHDの人はココがすばらしい!」
という話をしてたけどどこが素晴らしかったのかもう忘れた←
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%AF%E8%AA%9E
東南アジアの言語がすき
bocahで子供、bocah-bocahで子供たちみたいな文法、英語より愛嬌あっていいと思う
中東はシーシャのフレーバー、バナナだと青いやつの味だったり、ストロベリーだとヘタ付近の風味だったり
果物の楽しみ方が日本と違う……ってなる
うめくんにこれやってほしい
https://weekly.ascii.jp/elem/000/000/405/405286/
当時はワープロソフトよりもワープロ専用機が主流。
そのネーミングは、文豪(NEC)、オアシス(富士通)、ルポ(東芝)、書院(シャープ)…と考えたら、その中に「一太郎」があっても不自然ではないかと。
「ぴゅう太」は任天堂のパソコンでしょ。
昔、購入候補に「ぴゅう太」があがったことがあった。
ゲームとかに楽しそうなぴゅう太にするか、王道のPC-6001MkⅡにするか…と悩んで、結局両方買わなかった←
現象学おもろい
最近脳科学と薬理学の本ばっかり読んでてこの世は素粒子の集まりで本来何の意味もないみたいな強硬な唯物論をぼんやり抱きかけてたけど
客観的らしく見える実験の結果も実は志向性によって回帰された諸現出の束であって、誰にも確かなことは言えないんやなって……
がんばっておくすりの本読んでる
GABA-A受容体にGABAがくっつくとCl-チャネルがぱかーして
その複合体のBNZ受容体にベンゾジアゼピン系のやつがくっつくとさらにぱかーするのはわかったけど
なんでCl-を放出すると脳の機能が抑制されるのかわからないマン
文字化けって文字コードの解釈違いによっておこる現象だけど
ある文字について識別番号と現れ方が一:多の関係になるのって
文化的コード次第で一意の記号が多様な捉え方されるのをきれいに象徴してて好き
ベンゾ系服薬時の悟性にも似た全能感が怖い
時間がスムーズに流れすぎる
脳の異常な活動を抑制してる善い状態なのか
本来の心理的活動を埋却している悪い状態なのか
医者には考えすぎって言われるけどもう常飲せなやってられんし耐性がついたら待ってるのは地獄やなと
遠出して公園のベンチで板チョコ食べてたらモルモン教の兄ちゃんズに勧誘された
2度目やぞ
そんなに悲壮感漂ってる……?
心の哲学のレポート、どうしても一元論を擁護したかったから
方法的懐疑の悪魔を敷衍してクオリア問題をうやむやに消去したけど単位もらえるんだろうか
大陸哲学はいいぞ
というかグレアム・ハーマンの『四方対象』はいいぞ
ROとSQ間の緊張を「空間」と定義することで写真の情景のなかにも空間を認められるのが画期的
二次元の嫁を「でもそれただの絵じゃん?」って言わせないためにわいはオブジェクト指向存在論を擁護する
思弁的実在論は理論や仮説じゃなくてあくまでひとつの思考法って感じがする
スペキュラティブデザインがその一例だけど芸術理論と存在論は親和性高そう
でけた
https://www.youtube.com/watch?v=7yhjHVh1MBc
File:無題
ライフゲームつくった
動画のフレームレート速すぎたけど
https://youtu.be/1K7a5RJDQ4c
AWS(主にEC2)が流行ってる時勢で貸しサーバー屋が生き残ってるのは
たぶんアマプラがあるのにTSUTAYAが潰れてないのとおなじで惰性だとおもう
脳内の神経伝達物質のシグナル関連は分かっていないこと多すぎるんよね
何がよくわからないけど効いたっていう薬も結構多いし
ADHDはアドレナリン系の不足が原因のひとつとされているけど、それも果たして真実かは分からん
精神疾患に関する哲学的考察ならフーコー
の「狂気の歴史」がおすすめ
モノアミン仮説は所詮仮説に過ぎんからね
ちなみに医学じゃなくて直接処遇の視点からいけば
ADHDって本当にADHDなのか愛着障害なのか両睨みしながら対応しないといけない
たぶんADHDって愛着障害の二次障害を併発してるケースが多いと思うんよ
ここのところ医者も発達障害の診断するのがブームらしくて
同じような症状を呈する愛着障害が見逃されがちだから
いつだかやけになってハルシオン1st飲んだとき、かなり幸せな気分になれてうわっと思った
幸福ってマジで外在的な因果と関係なく、人為的に再現可能なんやなってなった
病名の鑑別がどこに落ち着こうが世間的にはただの厄介者だからどうでもいい
DSM5の妥当性とかの議論も専門家同士で勝手にやってくれって感じ
大陸哲学全般にただよってる、とっつきにくすぎて誰も批判したがらない雰囲気いいな
ぼくもそのぐらいふわっと生きたい
10年前の自分に「今、わいはド深夜にyoutubeで知らん女が餅食ってる音声を聴きながら大学のレポート書いてるよ」と教えてあげたい
[日記]
ものを知らないなりに、適者生存と人権の二律背反についてかんがえようとする
政治であれ存在論であれ、保存より変化を重んじるタイプの言説をすると
それを説いている奴自身が生物としての自己保存の本能にしたがってるじゃんか、という批判を免れないので
その点でニック・ランドとかメイヤスーとかは本当にそれを克服できてるのか? ってなるな
レイ・ブラシエの「人類が絶滅した後、「私」の知らない世界が到来する」みたいな話も結局「私」ありきだしなー
現代の「精神分析」って統合失調症とかASDの症状にかこつけて政治経済を語る、「それっぽさ」を追求した疑似社会理論であって臨床の場のものではないのに
書店にはセラピー的な扱いで心理学とかの棚に置いてあるの、わりとやばがち
あと心理学科のメンヘラはラカンに詳しがち
精神分析は現代でも臨床の場で生きてるよ。
どっちかというと治療よりも診断のほうがメインだけど。
あと精神分析も心理学の一領域だから心理学の棚にあるのが普通だと思う。
私の若い頃はオカルトの棚に置かれてあったりしてヒドイ扱いだった。
私の知ってる範囲だと普通、性別で分析方法変えたりしないけどな。
フロイトそのものの元祖精神分析だと性別で違ったりする部分もあったけど今は使わないと思うな。
精神分析と言っても元祖のフロイトだけを使うことはあんまりない。
たとえば現代ラカン派の理論とか使って、患者に「男の神経症は去勢不安、女の神経症はペニス羨望が原因です」とか説明したらフェミのひと激怒すると思うで……(精神分析における「ファルス」はあくまで欲望のたとえやろけど)
フロイトのリビドー論が発達心理学とかの研究と地続きなのはわかるけど、
「無意識」の言及が観念的すぎてオカルトとかスピリチュアリズムの思想に援用されまくってるから、わいはもうオカルト棚でええかな……っておもう
現代ラカン派はもう社会的な去勢が存在しない前提で享楽論とかやってるんだっけ?
どっちにしても、人の欲望の由来に性差があるって主張はフロイトから現代ラカン派まで一貫してるはず
去勢不安だとかペニス羨望だとか、フロイトの「性」へのこだわり的なものは使われないなぁ多分。
でも無意識とか抑圧とかを考慮しないと解離性障害とか多重人格はうまく理解できないと思う。
それは臨床心理で外せない。
精神分析的なものは、真実かどうかの保証はどこにもなくて、現象をどう解釈すれば有効な解決法が見つかるかって問題じゃん?
だから人によって解釈のやり方に差があると思う。
でも結局、有効な解決法さえ見出せれば、極論すれば解釈が正しくなくてもいいのが精神分析だからね。
ケアの現場でヒーリングとかスピリチュアリズムをつかって、それで当事者が楽になるのはいいことだけど
人によってやり方が異なるものを理論のように体系づけて心理学の棚に売ってたら、かえって当事者を困惑させる一方じゃないかとも思うんよな
「診断」って言ったのが正しい意味だったかどうか、要するにその人はどういう心理状態にあるかを解釈することをそう呼んだ。だから病名や障害名をつけるだけが目的じゃない。
「診断」という言葉は不適切だったかもね。「判定」と言ったほうがよかったか。
私としては、病名や障害名にこだわりたくない。なぜかというと、百人いたら百種類の心理状態があるのに、診断名という枠にはめてしまうと、その枠で相手を見てしまうリスクがあるから。
病名や障害名は、その人の状態を理解するためのものであって、うまく利用すべきツールみたいに私は思ってる。
それを言えば病原体も見つからないのに人間の心理診断になんの保証があるんでせう。
たとえて言えば検査方法の無かった時代のインフルエンザ診断と同じで、症状から診断してるだけのこと。急な高熱とか関節痛とかね。
漢方医学だって最近では徐々に解明されてきたけど、それ以前はツボがどうたらみたいな話は大した根拠を示せない経験則だったよね。
ただ精神分析は根拠の無さがちょっと際立ってるけど、現実にそれで治せる解釈や方法を経験で蓄積していってるものだから、オカルトじゃない。でなきゃ精神科の医者もオカルト使ってることになるよ。
ただしセラピストの最大の商売がたきは宗教と昔から言われていて、オカルトとの境界線が曖昧なのも否定できんけどね。
「精神分析が今後臨床で活用されるべきか否か」の話か
それは精神分析家を名乗る人たちで好きにやってもろて……って感じかな
でも近年、精神分析が何らかの影響力を伴う規模で精神疾患の緩和の役に立ってるってデータはみたことないで
斎藤環とか「精神分析は心理的な分析には使えない!」つってオープンダイアローグの研究に行っちゃったし
「精神分析の理論は臨床の場とは事情が異なる」だっけ
でも斎藤環の、サブカルチャーをラカンの理論で読解するみたいな本はおもろかった思い出がある
「使う」って、診断法としても療法としても使わないならどう「使っ」てるんや
臨床における「判定」が何を指してるのかわからん
だから、その人の心理がどういう状態にあるかを推測して、問題点を解決するための方針を立てるために使うんよ。それは別に病気や障害としての診断結果が「なし」でも、問題があればやる。
わいは心を単なる脳の創発現象だと思ってるから
非物質的な何か(言葉、態度、行動傾向とか)に還元するタイプの心理学はどっかで定義上の誤謬が起きてる気がするんよな
でもyoutubeに上がってるロリのささやき睡眠導入ASMRは心に効くから不思議よな
ねる
「心」というのは「現象」で、その発生源は脳とかなんとか物質的なものであっても現象そのものは非物質的なものやないの。
理論に未完成な部分があっても、実際に使えるなら、大学が学問として認めたり、厚労省が医療として認めたりしていい気がする。
精神分析とは何かっていうところの見解が二人で多分違うから、うまく話がかみ合ってない感じがするなあ
めちゃくちゃ余談なんだけど、心理学やら医学みたいな人間を対象とする学問は、1つ共通項があって、それは「正常性」という概念とは切り離せないこと
「正常な人間」というのが出発点にあって、正常から逸脱した状態を病として定義している
ただ、肝心の「正常な人間」とは何かっていうのが純粋に科学やっているのかと言われると難しい
というもの、正常性ってその時代や社会の規範的内容を多大にして含んでしまうから
精神疾患なんてのはまさにその分かりやすい例だと思う
一見すると個人にフォーカスを当てているようなんだけど、実は社会規範的な正常性が背景にあってその縛りからは抜け出せないんだよね
それが良いか悪いかは横に置いて、肝心の医者がそれを分からずに、我こそが科学者だみたいな面してるのが何ともね
しかも専門性が上がれば上がるほど、自分の専門領域に執着してしまうから、大学教授みたいな専門家連中ほど絶対にそれを認めない(彼らの専門的知識や能力は敬服しますが)
本当は社会規範の奴隷に過ぎないのに、自分らこそが健康の番人であり、社会を引っ張っていると勘違いしちゃう
だから専門家が集まるとDSM5がどうだこうだみたいなしょーもない議論になるんだよね
わいが想定してる精神分析っていうのは、フロイトの提唱した「エディプスコンプレックス」や「去勢」みたいな諸概念の実証を目指す、いくらか体系化された思想としての精神分析のことなんやけど、
南雲が言ってるのはもっとひろーい意味で、認知療法とか行動療法とか、「薬物療法のオルタナティブとしての心理学全般」のことを言ってるんかな
わいが患者としてここ5,6年間廻った医療機関では
心療内科の医師は処方薬が効いてるかどうか以上のことを聞かないし(心理療法は保険適用外なので専門機関を使う人はほぼいないし、大金はたいて催眠療法とか受けてるのはちょっとスピってる人)
大学常勤の臨床心理士は学内のサービスを紹介するだけの、半ばペッパーくん的な置物の役割を請け負ってるから
南雲がいってる「臨床の場」ってのは、もしやおとぎの国の世界なんでは……と思う
別に社会規範を変える必要はないと思うけど、医学の目的が患者の幸福ではなく患者を正常性の中に押し込めることになっちゃってるのってどうなのって思うよね
それで皆がハッピーならいいんだけど、患者はそれでは不幸なままだし、医者は医者で患者は解放されると本気で思っているからタチ悪い
そりゃいくら頑張っても精神病患者は減りませんわっていう
構造的に欠陥抱えてるんだもん
真面目な精神科医ほどこの矛盾に頭悩ませて結果自分が鬱になるっていうね
そのあたりをうまく利用して製薬会社は儲けていて、結局得しているのって彼らだけじゃんっていう闇が垣間見えるわけです
薬使えば幸せって普通に考えてやべーでしょ!!
薬のすべてを否定するつもりはないけど、やってることは麻薬と変わらんし、一時の退廃的な快楽に過ぎんからなあ
新型うつとかマジで闇オブ闇だと思うわ
>>138
精神分析と認知行動療法って、心理療法としては対極にあるもんだよ。めっちゃ単純化すれば精神分析はフロイトの応用でしょ。行動療法はワトソンの応用。「心理学」と一括りにしていいかどうか分からんくらいに別々の思想に基づいてるから、お互いに「あんなの心理学じゃない」みたいな喧嘩になる。薬物療法は対極と言うより根本的に別の分野。
今は認知行動療法のほうが幅を利かせてるけど私はそっちは嫌いだって言ってるんだが。
私の言ってる広義の精神分析は、投影法とか、日常生活の行動や会話(これも特別に意図的なものでなければ投影法と質が近い)から心理状態を解釈していく方法一般のこと。
>>140
結局、薬物だのなんだの使って無理やり社会適応させようとするのが闇なんだよ。
社会はいつの時代も少なからず歪んだものだから、その枠に押し込めたらそりゃ病むし、薬で脳内ホルモンをどうにかしてかりそめの適応を得ることができても薬をやめたら元の木阿弥。だからいったん飲み始めた薬はやめられなくて、製薬会社の儲けが安定的になる。
私は発想自体が古いのかもしれないけど、社会適応と自己適応という軸で考える。
社会不適応でも人間生きづらいけど社会適応を優先させるあまりに自己不適応を強いてるのが現代の主流なわけだ。
そうじゃなくて私はいくらかの社会不適応を許容しつつ自己適応にもっていくことに主眼を置いてる。
社会不適応で自己適応してる究極の状態は仙人とか隠者みたいになってしまうんだけど、それは行き過ぎだとしても、方向性としてはそっちを向いてるわけ。でなきゃ人間幸せにはなれんよ。
>>140
さっき正常/異常の境界線が時代によって変わる相対的なものだって言ってたけど
薬物によって患者が一時の退廃的快楽を得ることが異常だっていう社会規範もまた相対的で、これからの時代では正常と見なされうるんじゃない?
じぇいそんは「正しさなんて時代による」といいながら、他方で「薬物への放蕩だけは絶対に間違いだ!」とか「製薬会社ばかりが設けるのは絶対間違ってる!」っていうけどこれは矛盾している
メタ倫理学における普遍主義者がよくやる典型的な批判パターンで、「相対主義のパラドックス」っていうねんけど、道徳的相対主義者は「すべての規範は相対的だが自分の主張だけは不変的だ」と主張せざるを得ないんよな
矛盾した倫理を説くくらいだったらまだ、「精神疾患に関する普遍的な基準」を信じ、考えようとしてるお堅い学者連中のほうがまだメンタルヘルスに対して誠実な姿勢を見せているということもできよう
わいはどこに話を着地させたいんですか?(自問自答)
>>143
幸/不幸と正常/異常がごっちゃになってる気がする
余談のつもりでテキトーに書いただけだから分かりにくかったかも
めちゃくちゃ分かりやすくいうと、医学は「正常な人間こそが幸せである」という暗黙の前提がある
けど実際はそうじゃなくね?って言いたいわけ
+アルファとして、その暗黙の前提を包み隠さず医学が明かしているならまだ誠実だけど、そうじゃないからタチ悪いなって思う
これは精神医学に限らずだけど、「あなたという個人の幸せのために医療を施しているのです」、って医学は謳っている
個人にフォーカスを当てているつもりになっているんだけど、本当にフォーカスが当たっているのはどうやって正常に戻そうかっていうことだけじゃないかってことすよ
つまり、病院の役割は構造的に刑務所とほとんど変わらんなって思う
患者を健常者として社会に戻してあげるのが病院で、犯罪者を真っ当な人間にして社会に戻してあげるのが刑務所
犯罪者ほどではないけど、病人って悪と見なされること多いでしょ?(お前の健康管理がなっていないとかいう意味不明な理屈で)
感染症とかだと露骨に分かりやすいよね、感染者は社会に害をもたらす極悪人と見なされる
今回のコロナなんてまさにそう
この構造で皆がハッピーなら別にいいけど、不幸な人を生産しまくってるんじゃないのって言いたいわけ
あと別に正常という概念の相対性にフォーカスあてているわけではないよ(もしそうだとしたら刑務所も否定しないといけなくなる)
単に医学における正常な人間像に科学的真理なんてものはなくて社会規範に縛られている過ぎないってことが言いたいだけで、今ここに生きる人にとってはそれが全てでしょう
薬物依存患者が正常か異常かは置いといて、僕は大多数は不幸じゃないの?って思うけど・・・
一時的には薬で救われているのは間違いないし、薬の役割を全否定はしないよ
けどそれって本質的に人間に幸せをもたらすのかっていうのが疑問なだけ
別にそれで本人が幸せだって思うならそれでいいじゃんっていう考えは否定しないけど、医者はその個人の幸せに向き合ってないなって思う
だから医者は責められるの、「患者が不幸なままだぞ」とか「お前ら医者は何もしてくれねーやん」とかね
でも本当は医者が悪いわけじゃなくて、この矛盾した医学構造のせいなんだよね
患者がどうなろうがどうでもいいと思っている医者にとってはむしろ思考停止で医療行為ができる楽な構造なんだけど、真面目な医者は苦しんでいる(ちなみに大多数の医者は当然前者)
この構造で得するのは製薬会社だけで、医者も患者も不幸になっちゃうなあって思う
いやもちろん製薬会社の利益こそが正義だって言うならそれでもいいけど、なら医療界はそれを社会に表立って言うべき
そんなことは非倫理的だという意識があるからそれを隠しているわけよ
製薬会社だけが得してるって聞いたら、それこそ今の社会規範で多くの人はそれはおかしいという価値観を共有するはず
自分は基本的に人間は幸せなほうがいいと思っているし、医学の役割は刑務所ではなく、人を幸せなことにすることにあるとも思っている
この価値観を別に他人に押し付けるつもりはないけど、敬虔な医学徒としてはこの大きな構造に巻き込まれることなく少数派としてゲリラ戦を展開したいなって思うんすよね
>>142
その社会がそれこそ昭和みたいにかっちりした規範があったらまだマシなんだけど、今はそれが個人の自由だの多様性だの何だのと叫ばれて揺れ動いちゃっているから余計に難しいすね
社会は多様性を是としながら一方で、異常を排除するという本能的側面も持ち合わせていて、ダブスタに陥っているなって思う
医学には個人の幸福を是としながら正常性に縛られているという構造があって、さらにその正常性を規定する社会の側にもまた別のダブスタがあってもう複雑怪奇ナリって感じ
これならまだ分かりやすい社会規範が存在した昭和のほうが不幸な人は少なかったとすら思うね(エビデンスはないけど昔の方が自殺者少ないし)
ちなみに刑務所と病院との対比はフーコーの受け売りで、実際に昔は本当に病院は刑務所とまったく同じ役割だった(というか区別なくて、どちらも同じ監獄)
例えば、癩病患者と猟奇犯罪者を同じ施設に収容していた時期も普通にあったみたい
医学も「医学哲学」に根ざしてるから理論や技術だけでなく抽象的な思索も役に立ちそう。患者のためには。
一方で、患者の幸不幸なんてしらねーよ病院も医者も市場原理よ!みたいなタイプのほうが苦労しなさそう。
歴史を学んでよりよい未来を創ろうみたいなスタンス、前向きすぎてくらくらする
もうそういう人文的な良心はわいにはないんや……
利他的な成果を残して次の世代をいくら豊かにしようと、次世代には豊かになったがゆえの新しい苦悩が待ってる気がして
再帰的に延々と悪戦苦闘し続ける人類を思うと、もういっそ絶滅してまえと思うわ
processingでグリッチの再現
https://ux.getuploader.com/zatsudankip/download/195
node.jsの公式webサイトでなんか人権運動的ななんかをなんかしていてdownloadページ探すのに時間かかった
https://nodejs.org/en/
http://rci.nanzan-u.ac.jp/ISE/ja/publication/se28/28-06sasaki.pdf
幻想主義(人や行為者が行動して、その成果に責任を負うことは厳密にはできない)っていう責任論の立場の紹介
長いけどばかくそに面白いし、わいが子供のころおもってたことが言語化されてて感動した
ロボットが人間に危害を与えた場合、その行為は出生まで遡及して開発者のもとに責任が下るのに
人間は、産んでくれって頼んだ覚えもないのに出生させられ、しかも出生させられた本人が「生まれた以上眼前に起きたすべての出来事に責任を持て!」みたいな暗黙の規約を課され、違反すると罰則が設けられ、挙句どう行動しようが最後は死ぬの、つらい
人間がほかの存在に対して特権的な地位にいるっていう自惚れた先祖どものツケを子供、孫の世代にまわしていって、絶滅するまで続けるカスのリレー、どこかで打ち止めにするべきや
という反出生主義SFを書きたいんごねぇ……
倫理的なもの、道徳的なものを諦めた先になにかあるかもしれない(道徳全廃主義)という思想の先行論文を探してるけどどこにもない
強いて言えば右派加速主義がその一例なのかも知れんけど
辛かったら学校やめてもいいよ、会社やめてもいいよみたいな競争より逃避を選ぶことを認める最近の寛容志向、数十年後には「辛かったら人生やめてもいいよ」って具合に一般人の安楽死の許容まで進んでたら面白いな
spotifyでhiphop聴くようになったけど、流行りの歌詞を年代ごとに追ってくと主訴が一致団結(少数派のアイデンティティの確立)からNo new friends(集団的な孤立化)に向かってる気がして面白い
就活という社会現象は要約すると「生産性のないやつは野垂れ死ね」なので
政府は生産性のある人間を増やすため学生1人につき1年分のアデロールを配りました
わりと本気で、国を経済的に豊かにしたいなら自己PRの書き方講座とかちんたらやってないで
中枢神経刺激薬を市販薬にスイッチして配りまくればいいと思う
「再認できる事象は実在する(なんども確認できる物事は、観測者の心の状態には影響されず、観測という行為から独立して状態を維持する能力を有する)」と仮定すると
正常な人が「柴犬をなんども見たことがあるので、柴犬は実在する」というときと
認知能力のおかしい人が「妖精をなんども見たことがあるので、妖精は実在する」というとき、
両者の論理的な道筋に違いはない、というのが実在論の危うさであり、面白さでもあると思う
先天的に脳の疾患を持つ人やヒッピー的な生活を送っている人がスピ系にはまりやすいのは、前掲の仮定があたかも自明のこととされているからだとも
ここでもっと現実的な問題を挙げるとすれば、「美的感性」や「倫理観」のようなものに対する不毛な議論がある
それらは主観的なものとして知られつつも、一方で観測者個人のなかで何度も変容することがめったにないので
各々が勝手な仕方で前記のような論理を用いて「モナリザの美しさは実在する/しない」とか「ポリコレ的な正義は実在する/しない」と言い合って、結論を導出しえない議論が起こること
「言い間違いは無意識にある思考の表出だ」という俗流フロイト心理学、人と口論するときの揚げ足取りに便利だけど、使うと人に嫌われるデメリットがある
私はこの先には行けない。千尋は元来た道を辿ればいいんだ。でも決して接触の悪いイヤホンで幼女囁きASMRを聴いちゃいけないよ。特に親の前ではね。
http://www.daiwashobo.co.jp/web/html/kizawa/01.html
引用が鮮やかすぎて、ポストモダニズムに関するエッセイの中で一番面白い
去年現代思想の反出生主義の特集に寄稿してるのをみたけど、木澤佐登志ってなんなのか
政治経済で大学入ったけど、暗記しただけで実はいまだに分かっていないので
お金をいっぱい刷ればみんなしあわせになると思っている
かなしみのフルコースです前菜はへその緒からのはるかな自由 木下龍也
(『今日は誰にも愛されたかった』、ナナロク社、2019)
バカが主催する就活セミナー、労働に「自分を生かしてくれる社会に感謝しよう」という互恵性を求めてくるので笑える
誰が産んでくれっつったよ
人類がみんな「パパ、ママ、産んでくれてありがとう」って思いながら生活してるとでも思ってんのかな
あと大学を職業訓練所だと思ってるいい年した大人がけっこういるな
人文系は真面目に講義受けるほど就職に向かない人格になるぞ
マウスに「ボタンを押すと快楽が得られる装置」をある期間つけると、その装置を外してもボタンを押し続けるようになる
これは行動の動機付けが「報酬に対する反応」にとどまらず「報酬を得るための行動そのもの」にも伴っていることを示す実験であり、「依存」の研究で頻繁に引かれる逸話である
これを人の文芸鑑賞に当てはめて考えてみる
鑑賞者がアーティストの作品にある期間感動し続けると、たとえ晩年に以前のような質の作品を創出できなくなっても(極論、死後にすら)鑑賞者はアーティストを支持しつづける
これは鑑賞者が「作品を創出する能力に感動すること」ではなく、「アーティストの作品を鑑賞することそれ自体」を報酬として受けとるよう動機付けられてしまったからだと考えられる
このとき、鑑賞者が作者に「才能」や「権威」を覚える権威化、神聖化の仕組みは、実際には依存と同じなのではないか
ぷろぐらみんぐを数年やってきて、さっき静的型付けの言語は「整数/整数」の結果が勝手に小数点切り捨てされてることを知った
びーくんお久しぶり!!
最近、やいなちゃん、くまさん、ゆきのん、まりもん、そしてびーくんと最盛期の人たちがちょこちょこ顔を見せてくれる。