南雲スレNo.9。これまで過疎やら限界集落やら無人島寸前というネーミングでしたがとうとう無人島宣言。この先どうなることやら?
前スレ:https://rakuen.jeison.biz/bbs/read.php?mode=thread&no=155
Twitter:@south_cl
Bluesky:@nanto2024.bsky.social(南斗)
メール:south_cl(あっとまーく)mail.ee
前スレは終了に3年かかりました! 最長記録!←喜ぶな
今回はいつまでかかるか乞うご期待!
だいぶスレが盛り上がってて話が遡ってしまいますが失礼します(((
盛り上がるのはいいことですからね!
>>91
カナメ氏も喧嘩の、自由な言葉遊び的な側面や哲学など学問に通ずる議論なんかに魅力を感じてましたね。
反面、今のキャスフィもそうですが喧嘩板の荒らし的な側面を嫌ってました。
それもあってzawazawa喧嘩界ができた時はキャスフィは荒れに荒れていたんです。
ただ、彼が私と異なるのは、彼は喧嘩や議論の質を上げることで一般受けをめざしたところです。
彼はもともと議論コミュニティを作ったことがあったので、喧嘩でそれをめざしたんでしょう。
簡単にいうと、勝ち負けだけじゃなくて、そこで話されてる内容や話術なんかに誰でも興味をもてるような喧嘩をするといった感じでしょうか。
だからあえて喧嘩を定義せず、喧嘩の持つポテンシャルを最大限に発揮することを望んだ。
喧嘩という、なんでもOKな環境だからこそできる、そのワードや話題にセンスや新規性みたいな、一般的な面白さを求めたという訳です。
ただ、それを理解してやれたのはごく一部の利用者だけで、結局は喧嘩というワードへの先入観から荒れの方向に進む人が多く
最終的には喧嘩や喧嘩界というワードを捨て、RoundTableと名称を改め、喧嘩界隈から距離を置くことで新しいコミュニティを作ろうとした感じですね。
その時あたりにはカナメ氏も運営に飽きてきたらしく、目立った活動自体減ってましたが。
HOPEはまさに新規ユーザーを取り込める可能性を秘めているものだと思います。
喧嘩板文化を知らない人と新しく喧嘩板文化を再現しようとする企画でもありますしね。
なので、喧嘩板の歴史や当時の魅力的なコテハンの紹介なんかもいずれやっていけたらなと。
今のHOPEがあるのはこうした先人たちのおかげだと紹介する博物館みたいな感覚ですね。
ただ、喧嘩板というか、そもそも掲示板自体にニーズがあるかどうかっていうのもあるので、かなり難しい試みだと思います。
「どうやって掲示板を楽しんでもらおうかな」ってそればかり思案してます。
キャスフィ避難所の喧嘩板ってSiphonの提案だったんだ。
ぜんぜん知らなかった。
私がキャスフィに自力でたどり着いた時にはもう既に喧嘩板がありましたから。
ちょうどしゃもじ杯っていう喧嘩大会がやっててテキトーに参加してみたらなんか優勝したという。笑
他の面々は時期がズレてたのか名前だけ知ってた感じですが、ぷ闇とは喧嘩になったことがあります。
彼の喧嘩はかなりめんどくさくて途中から放置してました。
その数ヶ月後に別の人と喧嘩しようとしたらぷ闇がその放置した喧嘩のURLだけポンと出してきて、「こんなことするんだ……」って引いちゃって活動自体やめたことがあります。笑
名無し投稿を禁止しても、「あ」とかテキトーな名前つけて投稿する人が多かったですよね。
殺伐板と分かれた辺りのログを見てたので、苦労してるんだろうなっていうのはなんとなく察してました。
ちなみに私もSiphonとは冷やし猫鍋以来親しい関係でしたね。
喧嘩界の人で唯一仲良かった人かもしれない。
(ひよりはもなちゃと時代からの仲だったし、カナメさんも私にとってはもなちゃとの人って感覚でしたし)
ホントもうメールでやりとりするような仲だったんですが、彼女が受験生の時に親に携帯を取り上げられてから疎遠になってしまったんですよね。
ちょうどその頃、私も自分のパソコンが壊れてしまって、当時はガラケーだったこともあって掲示板なんて見れたものじゃなかったので、パソコンを買うまで喧嘩板は見てなかったんですよね。
で、数年後にパソコンを手に入れて、久しぶりに喧嘩板に行こうと思って検索してみたらたまたまキャスフィ避難所にたどり着いたという感じです。
そこから自由板でたまたまSiphonのスレを見つけて何度か投稿してみたんですが、私自身喧嘩板含め掲示板での活動が減ってたので、すれ違いすれ違いで今に至るって感じです。
悲しいかな、アレからほとんど話せず終わってるんですよね……。
2014年~2015年ごろに要と出会った時は議論したい人って感じじゃなかったなぁ
戦線を閉鎖してTwitterに居住地を移してきっとここで俺もついにネト落ちするのかなと思ってたら
何故かやたらと噛みついてきて
引退したいならそのまま垢消せよみたいな煽りをひたすらしてきてた記憶
>それもあってzawazawa喧嘩界ができた時はキャスフィは荒れに荒れていたんです。
荒れてたっけ?
雨降かロシュ限がお互いのサイトで反論しあうって訳わからない喧嘩してたのは覚えてるw
何時もみたいに名無しが対立煽ってた記憶だけちょっとあるなぁ
俺は喧嘩師とやらに憧れみたいなの感じた事ないから
あのセルシアが!って言われてもふーんって感じで興味なかったせいもあるかも
>>135
あれは彼のスタイルだったんだ・・・w
俺は彼とは間接的な知り合いだったんだよね
キトって名前だったかな?
赤村の関係者でそんな人とお互いに知り合いで
ある日キトのツイキャス視聴してたらコメント欄でまた要が噛みついてきて
言い換えしたらキャス主のキトもコメ欄の人達もこれは要の負けwってなって
そっから見てないわw
キトも今は何してるんだろう・・・
今にも死にそうな人だったけど生きてるかな
一応居るんだよね
もうほぼ活動してなかったけどね
今でもキャスフィ喧嘩板には呆れ返ってるけど
2019年もそれはそれでゴミ箱でしかなかったからw
むしろ今より酷かったんじゃないかな?
要って私は直接の接点はない(と思う)んだけど、いろんな側面があるみたいだな。
私は「要」のほうをよく見る一方で「カナメ」もちらほら見る。
これは時代の差で表記を変えたのか、キャラの使い分けをしてたのか。
>>130
HOPEが新規さん取り込みに効果があればいいと思うし、HOPEでスタートした人はあんまり荒らし行為に走らない文化を身につけてくれそうで期待が持てる。
もっともそれはうまくいけばの話で、今の時代は喧嘩掲示板を維持するだけで大変でしょうね。
ぷ闇はいつだったか「とっくに終わったと思ってた過去の喧嘩に後から急に反論してくる」みたいなこと言われてたっけ。けど、喧嘩板の削除人もやってたからじぇいそんには一定の信頼はもらってたはず…。
まあ削除人といえば那須があまりにも優秀だったんで他の人が霞んでしまうけどね。那須ほどではないかもだけどちっぱーも有能でよく頑張ってくれてた。
話がそれるけど那須ならじぇいそんが忙しい時のために削除だけでなく規制の権限も与えていいんじゃないかって思ってた。
喧嘩板はSiphonが何だったか忘れたけど別名使って提案したのが始まりだった。
>>132-133
Siphonは博識で頭脳明晰、地頭では飛び抜けてた感じがしたけど、簡単に個人情報漏らすような脇の甘さがあったのかな。喧嘩に関しては知識と論力で真正面から突破するタイプだからあまりテクニシャンのイメージはない。ちょっと正直すぎたのかなあ。
私は能力的には彼女に脱帽してたけど「日本が潰れたら外国で暮らせばいい」みたいに合理的すぎるところが思想的に合わなかった。私は日本人のアイデンティティが強いんで。だからベジータに共感する(何の話)。
たしかSiphonはセンター試験の成績まで報告してたと思う。だからホントに受験までキャスフィにいた。でも二次試験の結果は見てないから、そのあたりで退場したのかな。
(面倒だから語尾を常体にしました)
>>138
正直、jeison.bizドメインの契約更新ができてもじぇいそんが管理する余裕のない状態だったら、喧嘩板は閉鎖してもいいんじゃないかって思ってた。
喧嘩界としては貴重な生き残りだとしてもトラブルが生じやすい状態のを管理できないのならって。
でも管理できる以上、なくなるのはやっぱ惜しいから現状維持かな。
オビディのスレが意外にもカンフル剤になってたりw
むしろ雑談板のほうが長いこと正体不明化してる。なんであんなのが湧いたのかな。最初は一時的現象かと思ってたのに。
私のスレも完全にハルジオンに乗っ取られたw
そういやしばらく前に、縁もゆかりもほとんどない(全くないわけじゃないのが微妙)県の警察署から午前1時に電話がかかってきてびびった。
番号は調べてみても間違いなく警察署の代表電話。
わずかな縁で何事か起きたのか、所在県は無関係でネット詐欺的な被害にでもあったのか、あるいは発信者番号偽装の巧妙な詐欺電話か…と思って恐る恐る折り返し電話して確認したら「すみません間違い電話でした」と。
発信元が本物の警察署で内容が間違い電話ならよかった。
まあ警察官でも見間違いや押し間違いくらいする。午前1時というのも、何の用件か知らんけどご苦労なことです。
南雲さんがそうするなら私もタメ口にします。
というか日向とは今まで敬語で話してなかったのについ流れで敬語にしてしまった。笑
>>136
たぶんアレが彼のスタイルだったんだと思う。笑
私は彼のことはもともと一方的にもなちゃとで知ってただけだったな。
あの人はもなちゃとの喧嘩師界隈では、あの平成喧嘩塾でも活動してるレジェンド!みたいな扱いだったからね。
私的にはすげー人と絡めた!って感じだったよ。
キトさんはぜんぜん知らないな。
というか、そういえば赤村さんの界隈は赤村さんも含めてまったく知らない。
彼のことはツイッタラーとして有名なのは知ってるんだけど、正直他の有名古参と比べて接点が無さすぎる。
ログがあんま残ってないからかもしれない。
そうだったんだ。
ぜんぜん印象に残ってないや。
2019年は荒れに荒れてたと思う。
今は過疎で廃れた商店街みたいな荒れ方だけど、当時は人も多かったからね。
りおしとかもいたけど、りおしに名無しが粘着するっていう構図ができてたし。
カナメ氏がキャスフィの荒れをYouTubeのコメ欄って喩えてたのを覚えてます。
>>139
他の人はわかんないけど、私が彼のことをカナメさんって呼ぶのは、「つまりは」って意味の「要は」とか「〜の要だ」とかと紛らわしいからだよ。笑
特に深い意味はない。
HOPEはホント人が増えればいい感じになりそうなんだよね。
しかし、増やし方がマージでわからない。
私の感覚でも「話すのにわざわざ掲示板じゃなくてもいいよね」ってなるもん。
あと、誘った知り合いに「喧嘩って何?」って言われた時は、ジェネレーションギャップというか、文化の違いを感じてしまった。
私はリアル友人に初めてネット誘われた時から、もなちゃとの喧嘩師っていう文化を知ってたから、喧嘩を知らない人がいるってことにビックリしてしまったんだよ……。
そういえばいつしか喧嘩じゃなくてレスバって呼ぶようになったよね。
ぷ闇が削除人やってたのは知ってるけど、彼にいい印象がなかったから「まさか彼が?」って当時ずっと思ってた。
そういう私も冷やし猫鍋の削除人してたけど(なお仕事らしい仕事はしてない模様)
なんか削除人ってどういう仕事していいのかよくわからなかったんよね。
特に喧嘩板って多少荒れてても許されるところがあるじゃん?
荒らしなように見えて実は喧嘩売ってるんだよ!みたいなのもいたし。
まあ冷やし猫鍋に限れば、Siphonの管理能力がすごかったのか、削除しなければいけないほどの荒らしってほぼ来てなかったけど。
Siphonはちょっと抜けてる面白い子だったよ。
たぶん裏と表をしっかり使い分けてたんじゃないかな。
それを悪意のある人がバラしたって感じがする。
>>142-144
要のことは直接接点のない、キャスフィ喧嘩板の外には目を向けなかった私もその名を聞いてるのだから、レジェンドというか主要人物ではあるんだろうね。喧嘩界の歴史を書けば名を連ねるような。
キトって人は全然知らない。赤村は強いって話をかなり聞いてる。
雑談板の意味不明住民はどこから湧いたかも不思議だし、なんで居着くんだよってのも不思議。
おかげでまともな住民が寄りつかなくなったじゃないか。
本来、らくえんの住民と一番親和性が高そうで比較的クローズなここに比べてオープンな雑談板ってことで、ここの新規さんの供給源になってもおかしくなかったのに。
そういや要の表記はKANAMEってローマ字綴りもあるんだっけ。「要」だと人名としてピンとこない場面があるってのはなるほどそうかも。
いや普通に喧嘩って分からない人が多いと思うよ。本来の意味での「喧嘩」じゃなくて、言葉の格闘技みたいに必ずしも互いに嫌悪していない状態での喧嘩って、通じないんじゃないかな。喧嘩師と言っても、相手構わず場所構わず攻撃する迷惑系みたいなイメージじゃないかと。つまり荒らしとの区別がつかない人が多いんじゃないかな。
私はぷ闇の印象はニュートラルかな。良い印象も悪い印象もない。まあ削除人である以上、自分がめちゃくちゃするわけにはいかないだろうし、削除人としての仕事はあまりやってなかった気がするけど少しはやってたような。
オビディはSiphonの個人情報を聞かされるくらいだから信用されてたんだろうね。だから冷やしの削除人を任されたんだろうな。ちなみに私はSiphonと思想が合わないと言ったけど全体的にはポジティブイメージ。考え方は違っても性格は良さそうだったので嫌いじゃなかった。
そういやSiphonが健在な時代、冷やしが荒れてた記憶がない。あんまり深くは見てないけど。
ちょっと抜けてるってのは意外だったな。
幅広い知識と論理構成の切れの良さばかりに目が行ってて、そういう愛嬌のあるところを知らなかった。抜けたところがあるほうが人間としては面白いんだよなあ。そこまで知らなかったのは残念だ。
じぇいそんだって詳しくは言わないけど、めちゃくちゃ可愛いって思ったことが一度だけあった。普段スキのなさそうな人が見せるそういう場面って好感度上がるんだよなあ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/90651dae5c95383b7115bcc6a01043d697cc5815
ローマ帝国と秦の共通点としてまず思い浮かぶことは、天下統一以前の長い歴史があること。
そして、大統一を果たしたのはローマ帝国ではアウグストゥス帝、秦では始皇帝だけど、その直前に統一の一歩手前までの準備を整えた人がいること。ローマ帝国ではカエサル、秦では昭襄王。
一番の違いは、ローマ帝国はその後長く繁栄したのに秦は始皇帝の死後あっという間に滅んだこと。ただし漢が長期政権を作ったのは秦の業績を引き継いだからできたことで、秦が長期政権のモトを作ったことは間違いない。
始皇帝が本当に昭襄王の曾孫で荘襄王の息子なのか、実は呂不韋の子じゃないのかというのは謎で面白い。なんか豊臣秀頼も「本当に秀吉の息子か?」みたいな話があったっけ。
あぁキトは多分有名でもなんでもないよ
あどあんとかと一部関わりがあるけどそもそもTwitterに居た人だったからね
俺も赤村とは一切関わりないわ
Twitterに居た時の芸風が一部被ってて赤村と俺が叩く人が時折被った時に比較されてどっちが面白いとか言われてたから
当時の俺はなんとなく対抗心持ってたのだけ覚えてるw
>「日本が潰れたら外国で暮らせばいい」みたいに合理的すぎるところ
これは何となく分かるなぁ
日本で生まれたから住んでるだけでここがだめなら別の場所で良くねと
まぁ最悪死ねばいいやんって思ってる
もう手遅れだけど旧喧嘩板(現殺伐板)と喧嘩板を分けたりした辺りは
こんなんするくらいなら俺に喧嘩板の管理者権限くれれば終わってる奴らだけ弾いたのにって思った記憶がある
>>148
「日本が潰れたら外国で暮らせばいい」
これ日向に言われても思想の違いって気がしない
日向って発想が柔軟だからなぁみたいに流しそう
Siphonだから私も堅苦しく解釈しちゃったみたいな所がある
逆に日向が「日本人としての愛国心を…」って言い出したらなんかキャラが違うって感じがする
てか私も中学生くらいの頃はオーストラリアかニュージーランドで暮らしたいとか思ってた
そのくせ英会話の練習は全然しなかったけどw
じぇいそんと考えさえ一致してたら日向ならもっと上手い弾き方があったかな…
私が那須にもっと権限与えてもと思ってたのは、あくまでじぇいそんの管理下での話で
やっぱり自分のサイトだからじぇいそんもがっちり権限は独占的に握っていたいだろうと思う
じぇいそんの長期不在の間に時々荒らしっぽいのが現れると
「らくえんの削除人」くらいは私もやりたいと思ったことがある
でも私とじぇいそんでは考え方が(昔から)違ったりして
私なら削除することでもじぇいそんは許容するかもって考えたら自信なくなるんよね
基本的にじぇいそんは自由優先であまり介入しないほうを選ぶからなー
んー俺はじぇいそんと考えが一致するかどうか?じゃなくて
2017~18くらいの隆盛を俺なら保てたって認識してるかな
コミュニティサイトって人間が居て初めて成り立つものって認識をしていて
あの頃に居た9割の人間もはや荒らした側ですら見限って居なくなったことがじぇいそんの方針だったなら
この有り様も仕方ないのだけれどね
あれから何年も経った今に、2017~18の盛り上がりを本当に保てたらすごい
私の活動時期ってちょうどキャスフィ喧嘩板が良い時期だったからなー
あの状態が続いても私は引退しただろうけどROMってるだけでも面白かっただろうな
今となってはオビディ板が盛況になるのを願うばかり
オビディって東洋史や日本史が好きなんだ
中国史や日本史が好きな私と案外趣味合ってるやん
ちなみに私は戦艦三笠と自由板で三国志ネタの雑談をやってたことがあって(三笠が袁術のことを「ハチミツ皇帝」とか呼んでたのが面白かった)
そういうのって雑談のネタになるかもよ
あれ自由板じゃなくて雑談板だったかも?
どっちか忘れたけど
私が三笠と仲良かったのは三国志という共通の話題があったのが大きい
私はむしろ南宋以前のほうが好きかな
春秋戦国あたりとか
特に好きな人物とかはないけど
尊敬するのは劉秀、共感するのは屈原みたいな感じ
>>160
劉秀を尊敬するのめっちゃわかる!
あの人リアル主人公すぎてヤバいよね。
部下の将軍の危機にさっそうと現れて勝利をかっさらうのエグいし。
皇帝になってからも先陣切って戦うし(部下も信頼してるから止めないし)。
妻の陰皇后には「ジョーク言いすぎて嫌い」って言われるし、皇帝になってるのに身内には諱で呼ばれるし。
皇帝になってからは政務に勤しみすぎて息子に心配されるし。
しかもその返答が「楽しんでるから疲れない」だし。
聖王って呼ばれるのが鬱陶しいって理由で「聖」って言葉を禁止するし。
後漢っていう平和な時代を作ったのにもかかわらず、死ぬ時に「自分は人の役に立てなかった」っていうし。
もうかっこよすぎてヤバい。
中国史なら私も南宋以前が好きだね。
南宋以降は政治機構とかややこしいし。
でも明の永楽帝辺りのゴタゴタは好き。
>>161
私が劉秀を尊敬するのは、普段は「石橋を叩いても渡らない」ほどの慎重居士でありながらここ一番では大勝負ができること。
職制の大司空、大司馬などから「大」を取り除いて身の丈に合った称号にしたこと。
近所のオバさんたちから「あんたみたいな豪快でも何でもない人が皇帝になるなんて」と驚かれると「政治の道においてもまた柔の道でやる」と答えたこと。
「隴を得て蜀を望む」の言葉のように自省できること。
イメージとして、天下人という雲の上の存在というよりは、なんか身近に感じるんだよね。天下をとってからも謙虚さを持ち続けたような。
惜しむらくは後漢の皇帝は早死にばかりで外戚と宦官の主導権争いの場と化して弱体化していった。
永楽帝かあ。明の全盛期を築いた人だけど、建文帝を滅ぼしたのはあまり好きじゃない。
そうしなければ自分がやられていたかもしれないけど、建文帝の性格から当時は燕王の永楽帝を殺しそうな雰囲気はなかったからなあ。
皇帝としては永楽帝のほうがはるかに優れてるけど、お付き合いするならあまり能力なくて優柔不断でも建文帝を選ぶよ。
>>162
身近に感じるのはすごくわかるよ。
部下もその人間性を知ってるからズバズバ意見するんよね。
しかも戦時中はほぼ無敗で歴戦の将軍たちですら恐れるほどの武人だったのに、戦後は武力を捨てて徴兵制をなくして常備軍に農耕させるほどの徹底ぶり。
そこも痺れる。
ちなみに『三略』の作者は劉秀なんじゃないかっていう説もあるんだよね。
「柔の道」みたいに『三略』からの引用が目立つのと、『三略』が兵法書の中でも政治書の側面が強いことが大きい。
また、劉秀は兵法書を机上の空論として嫌ってるような描写もあって、「兵法などはただ書かれたものに過ぎず実際の役に立たない」って言ってたり、皇太子(後の明帝)に「兵法について教えてほしい」と言われた時、「お前には必要ない」と言ったエピソードもある。
まあこっちは「皇帝に兵法はいらない」っていうことでもありそうだけど。
『三略』の伝承としては『六韜』とともに太公望が書いたもので、黄石公っていう仙人が張良に渡した兵法書って言われてるんだけど
当時にはなかった騎馬戦のことや「将軍」という言葉、また韓信の言った「狡兎死して良狗烹らる」のところが登場したり、前漢末の書物がほぼ全て記されてる『漢書』文藝志にも載ってないっていう明らかに前漢以降に書かれたことがわかってる。
しかも劉秀の「柔や剛を上手く使う」やり方にバッチリハマってるんよ。
だから、皇太子に「これがお前の兵法書だ」とか言って渡したのが『三略』の可能性があるんだよね。
また他にも根拠があって、それは『三略』が『六韜』『貞観政要』『李衛公問対』なんかと違って問答形式じゃないこと。
これは皇帝に献上する時、臣下が自分の言葉で教えるのは失礼にあたるっていうのもあって、基本は太公望と武王とか、後の唐太宗と李靖のようないわゆる聖王と呼ばれる人たちが問答してるところから学ぶのが一般的だったそう。
それから外れる『三略』は、劉秀が皇太子にあげた書物だからという話。
劉秀なら「これがお前の読む兵法書だ」ってコレを渡す姿が見えるくらいわかるんだよね。
永楽帝の事件は、あれはそもそも父親が悪いんよ。
功臣みんな殺してしまうし。
皇族殺して皇帝につく例は隋煬帝や唐太宗もやってるし、多少悪逆非道でもやらなきゃいけない部分ではある。
私も事件が好きで永楽帝自体はあんまりだけど、いちばん嫌いなのは洪武帝朱元璋だね。笑
好きな皇帝は劉秀を除けば漢文帝、あと李世民かな。
ちょっとダーティーで煬帝と比べられるし彼自身も煬帝コンプレックスがあったと思うけど。
武将まで行くと韓信が好き。
『三略』は読んだことあるけどよくセットで語られる『六韜』とはまるで別物だった。
『六韜』は兵法書というより謀略の書。藤原氏が愛読しただけのことはある。『三略』は兵法書で政治学書で哲学書みたいな。
太公望ってのはまったく信憑性がないっていうかほとんど否定していいし、黄石公も実在したとは思えないので張良が持ってたかも確かに怪しい。
張良はもとから韓の宰相家の出身だから若い頃からいくらでも兵法を学ぶ機会はあった。さらに始皇帝暗殺に失敗してから項伯のもとに身を隠してたからそこでも学ぶ機会があった。
だから『三略』の作者が劉秀でもおかしくない。
すると疑問なのは、劉秀がなぜ自分が皇太子のために作ったことを秘密にして、太公望なり黄石公を出さなければいけなかったのかになる。劉秀が謙虚だからじゃ納得できない。自分の著作であることを隠さなければならなかった理由は何だったのか。
洪武帝がアレなのはもちろんよ。劉邦以上の出世物語ではあるし猜疑心にとりつかれたのも劉邦と共通するけど、劉邦は陽、朱元璋は陰、って感じ。
永楽帝は建文帝の存在自体を抹殺してるのがちょっとね。そんな皇帝いませんでしたって。普通は、暴君だから倒したとか倒さなきゃ殺されるところだったので仕方なくとか、そういう理由を立てるのに。煬帝だって本来の皇太子が楊勇だった事実は消してないし唐太宗もいろいろ脚色はしてても皇太子が李建成だった事実までは消してない。
結局、永楽帝が明の全盛時代を築いたから皇帝としては素晴らしかったんだろうけどね。
誰の家来になるのが嫌かと言われるとそりゃ朱元璋。生きた心地がしない。
あー私も韓信は大好き。兵を用いては天才なのに、蒯通の策で劉邦を裏切ることができずに破滅した弱さもあって。友人の情で鍾離眜をかくまったり、それがバレても劉邦には逆らえなかったり、政治的な問題になると優柔不断になっちゃう。私はそういう強さと弱さを併せ持った人が好きだな。
>>164
伝説は流出してから結びついたんじゃないかなと安易に思ったり。
作者不明の謎については、
そもそも劉秀は兵法のことを嫌ってた手前、大々的に兵法書を書いたとは言いにくいとか、
あとは、明帝にだけ渡したかったから作者不明にしたとかかなって。
劉邦に関してはちょっと弁護したい。
劉邦は自分が逃げるためなら子どもまで捨てるような人だけど、当時の流れにもよると思うんだ。
というのも、もともと陳勝は旧六国を復活させて自分たちもちゃっかり王にはなってるものの、基本は六国の一族から王になってるんだよね。
要は当時は何もしてなくても一族だったからという理由で王になれた時代だった。
で、「そういうのおかしい!」って言ったのが項羽。
彼はそんな王を無くして国を細分化、それを功臣たちに分け与えた。
劉邦はそこから項羽を制したから、敵対してた項羽のやり方を否定したかったんじゃないかなと。
韓信は一飯千金のエピソードが好き。
恩返しする話。
律儀だなぁと思えるエピソードだよね。
>>167
『三略』が劉秀の作だとして、どういうつもりだったのか想像するのも面白いね。
陳勝は成り行きで旗揚げしたこともあって、かなり行き当たりばったりだったよ。たとえば陳勝は自分のことを始皇帝に自決を命じられた長男の扶蘇だと名乗ったり、相棒の呉広は秦に滅ぼされた楚の名将・項燕を名乗ったり。反乱が一定成功して、陳を占領してから国号を「張楚」にしたけど六国復活はむしろ自然発生的な流れだったはず。張耳や陳余が趙を復活させたのも、陳勝の意志に反する独立だったわけだし。
単純な「反秦」から「六国復活」の大義名分になったのは范増が懐王を戴くように項梁にすすめたせいじゃないかな。
項羽の論功行賞は不公平だったけど、基本的な考え方は「より多くの人を王にして喜ばせること」と「細分化することで巨大勢力の出現を防ぐこと」だったと思う。その考え方自体には一理あるけど、やり方は周の封建制と変わりないんだよね。
劉邦は、というより張良が中心だったはずだけど、周や項羽のやった封建制と秦の郡県制の失敗を見て、両者を混ぜ合わせた。どういう体制が長続きするかを考えると、封建制では中央の権力が弱くなりすぎて、郡県制では地方の反乱に対応できなかった。だから強力な中央政権とそこそこの地方政権という形になった。策略はともかく政治力では、范増よりも張良が上だったってことだと思う。
韓信が老婆に恩返しした話だね。
韓信はそういう律儀さがあるのが魅力だし、律儀だから劉邦への恩義を大切にして破滅しちゃった。
最後は「あのとき蒯通の策を用いていたら…」とか後悔して余計なことを言ったせいで蒯通までつかまっちゃうという。
戦の天才であっても、戦以外では普通のマジメな人っていう感じがいいな。
蒯通は韓信を天下人にしようとしてたけど、天下人は前にオビディが言ってた李世民みたいに「やるときはやる」ような冷酷な決断力も必要だから、やっぱり韓信の天下では続かなかったと思う。いい人すぎて。
>>169
面白いのわかる!
まあいちばんは作者が判明することだけどね。
例えば「兵法三十六計逃げるに敷かず」で有名な、『三十六計』の作者が檀道済だっていうのが2009年(だったかな?)にわかったっていうのを知ってビックリしたのを覚えてる。
2017年くらいにもそんなニュースが流れたようなことがあったけど。
ごめん、陳勝や項羽、劉邦の建国の流れについては読んでた資料を誤解してた。
南雲さんの流れであってるわ。
李開元 [著]『漢帝国の形成とその権力構造 : 軍功受益階層の研究』. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3163341 (参照 2025-03-28)
この論文の第二章の第二節にある「陳勝の復国建王と平民王政」ってところなんだけど、ここに「戦国復国の創始者は陳勝である」って書かれてて、ずっと陳勝たちが六国を建てたんだと思い込んでた。
よくよく読んでみると、陳勝が復国運動のキッカケになったくらいのニュアンスで書かれてあるだけだったよ。
しかも、陳勝の張楚建国の論理が項羽に受け継がれて、その論理と六国復活の論理が融合して後の漢王朝につながったって話だった。
いろいろすっ飛ばしてたね。
ただ、私が言いたかったのは、もともとは何もしなくても一族ってだけで王になれた→項羽のおかげで論功によってしか王になれなくなった→劉邦は項羽を否定して一族による王に戻した(ただし劉一族だけ)ってことだった。
だから単純に猜疑心によるものじゃないって話。
秦末当時の常識として反秦=自国の復活→六国の復活だったと思うよ。
ただ、陳勝みたいに自分が王になるっていう発想はなくて、王家の子孫を探し出して王に据えて自分は諸侯に任命されるくらいの感覚だったんじゃないかなと。
それが陳勝の楚王即位で前例ができてしまったって感じ。
ちなみに陳勝の王即位の論理は2つあって、「反秦蜂起を最初にしたから」と「楚を復活したから」というものだった。
反秦蜂起は軍功で、楚の復活は徳によるものだったわけ。
范増はそんな陳勝を批判したんだけど、張耳や陳余も陳勝の即位に否定的だったことを鑑みるとやっぱり当時の常識としておかしかったんだと思う。
その後、楚には懐王がたち、燕を除いてすべての王が王族の子孫に変わった。
しかし項羽はこの王族の世襲制を認めず、軍功による支配だけを認めたかった。
考えてみればそうで、項一族は貴族であって王族じゃないから、自分が王になる論理と懐王が王である論理が一致しないんだよね。
でも今の王をいきなり殺す訳にもいかないから、当初は王を認めつつも功臣を王に据えた。
だから国を分けざるを得なかったって感じ。
漢の時代になると、楚と燕以外は七国とだいたい同じで、秦が漢になったくらいだった。
特に楚は敵国だったから分けられるのは当然だったし、燕に関しても陳勝時代からの王だったから分けられた。
つまりこの時代は論理としては軍功による支配だったんだけど、体裁としてはもとの戦国七雄支配に戻りつつあったんだよね。
その後、劉氏の王に変えられて、功臣は諸侯に変わっていった。
ここから劉氏による世襲制に変わったって感じ。
ちなみにその論文には呂氏政権時代、文帝や景帝の時代までが書かれてるけどここでは割愛するね。
だから私は漢の郡国制は、項羽の否定≒六国の復活だったんじゃないかなと思ってるんよ。
で、これを書いてて思ったんだけど、単純に項羽の否定だけじゃなくて、それほどまでに秦の統一が当時の人々に受け入れられなかったかのどっちかかなと思う。
韓信は律儀さっていうのもあるけど、シンプルに自分を見つけてくれた蕭何や大将軍にしてくれた劉邦のことを心から慕ってたんだと思う。
そりゃもともと誰かの目に止まるような人間じゃなかったのに、夢であった大将軍にしてくれたんだから、めちゃくちゃ嬉しかっただろうしね。
しかも最後の最後ですら蕭何を信用して捕らえられてるから、時代が時代じゃなきゃもっと幸せになれただろうなって思う。
たぶん韓信自身は天下なんて夢とすら思ってなかったんじゃないかな。
蒯通の謀略聞いた時も当時は「項羽と劉邦の両方の兵と戦えるなぁ」くらいにしか思ってなさそう。
まあ劉邦が猜疑心にとらわれたのは事実でも、劉氏しか王になれないようにしたのは計画的な部分もあったかもしれない。多分、猜疑心で身内しか信じられなくなった面と、劉氏で天下の全権を握ろうという計算の両面があったのかと推測する。
ただ燕王盧綰まで匈奴に逃げなきゃならなくなったのは、猜疑心の強さが相当表れてると思う。
陳勝は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と言ったから、その論理で自分が王になったんだろう。ただ陳勝は特に知識人でもなかったから当時の社会でそれが受け入れられるかどうかまでは考えが至らなかった。
「反秦」という意味では「旧六国の復活」をスローガンにするのが最も共感を得やすかっただろう。特に楚は、「楚は三戸といえども秦を滅ぼす者は楚」というほど秦への憎悪が激しかった。
しかしオビディも言ってるように、項羽自身が楚の将軍の家系で王族じゃないから、自分が天下に君臨するには旧六国の血統とは別の基準を作らないといけない。そこで功臣を王に封じた。ただ項羽の天下は短かったから実現はしなかったけど、仮に続いていたら項羽の封じた王がまた世襲で王位を継いだはず。天下統一後には王になるほどの功臣なんてそんなに出ないから。だから建国の功臣に各地を統治させてそれを世襲させる形になるけどそれって周のやったことの再現だと思う。周の武王が項羽になっただけで、そういう構想しか持てなかったのは、項羽や范増の限界だったと思う。
秦は李斯の意見で全国を皇帝が直轄支配する体制だった。それだと陳勝や旧六国の復国運動を鎮圧できなかった。だから劉邦の時代には秦と周、もしくは項羽の体制を折衷したわけだけど、劉邦の猜疑心のせいか計画的か、功臣の王を順次潰していったわけだよね。劉邦自身は英布討伐の負傷がモトで死んだけど、最後の大物・英布まで倒せばやるべきことはやったって感じだろう。
呂后時代のゴタゴタは置いといて、呉楚七国の乱を手際よく片付けられた大きな理由は、この郡国制がうまく機能したからだ。呉楚七国は劉氏の身内争いではあるけど。
劉邦としては、本音では韓信や英布などに強大な権限を渡したくなかったけど、彼らの活躍で項羽に勝ったことを思えば仕方がなかった。七雄みたいな状態に戻したくはなかったけど彼らに叛かれたら漢帝国自体が潰れかねないからやむを得なかった。でも劉邦時代に他人の王を身内の王に取り替えて漢の天下が安定すると、諸国の王は邪魔になっていった。だから晁錯みたいなやり方が出てくる。
そうだね、韓信は素直に劉邦や蕭何に感謝して慕っていたと思う。
だったら「仮の斉王」なんて要求しなければいいのに(あくまで劉邦の下で)出世はしたかったから、蒯通の策を一部用いたりする。韓信はどっちみち影響力が大きくなりすぎたから徹頭徹尾劉邦に従い続けても結局は討伐されたとは思うけど、韓信自身の態度も、逆らわないという一線は守っても仮の斉王を要求したり垓下の戦いではすぐに馳せ参じなかったりと、中途半端な態度を取るから余計に劉邦に疑われる。劉邦をそこまで慕うのなら、もっとイエスマンになればいいのに、って思う。蒯通の言う理屈自体は分かってたから、蒯通の言う通りに反逆すればいいんだけど、韓信自身がそれは絶対に嫌だということであれば真逆に劉邦のご機嫌を取り続けることしか生存戦略は無かったはず。なのに出世欲はあるからそっちもできなかった。
そういう韓信の「政治的な先見の無さ」というか不完全さというか不器用さというか。そこがまた魅力なんだよな。