まあ劉邦が猜疑心にとらわれたのは事実でも、劉氏しか王になれないようにしたのは計画的な部分もあったかもしれない。多分、猜疑心で身内しか信じられなくなった面と、劉氏で天下の全権を握ろうという計算の両面があったのかと推測する。
ただ燕王盧綰まで匈奴に逃げなきゃならなくなったのは、猜疑心の強さが相当表れてると思う。
陳勝は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と言ったから、その論理で自分が王になったんだろう。ただ陳勝は特に知識人でもなかったから当時の社会でそれが受け入れられるかどうかまでは考えが至らなかった。
「反秦」という意味では「旧六国の復活」をスローガンにするのが最も共感を得やすかっただろう。特に楚は、「楚は三戸といえども秦を滅ぼす者は楚」というほど秦への憎悪が激しかった。
しかしオビディも言ってるように、項羽自身が楚の将軍の家系で王族じゃないから、自分が天下に君臨するには旧六国の血統とは別の基準を作らないといけない。そこで功臣を王に封じた。ただ項羽の天下は短かったから実現はしなかったけど、仮に続いていたら項羽の封じた王がまた世襲で王位を継いだはず。天下統一後には王になるほどの功臣なんてそんなに出ないから。だから建国の功臣に各地を統治させてそれを世襲させる形になるけどそれって周のやったことの再現だと思う。周の武王が項羽になっただけで、そういう構想しか持てなかったのは、項羽や范増の限界だったと思う。
秦は李斯の意見で全国を皇帝が直轄支配する体制だった。それだと陳勝や旧六国の復国運動を鎮圧できなかった。だから劉邦の時代には秦と周、もしくは項羽の体制を折衷したわけだけど、劉邦の猜疑心のせいか計画的か、功臣の王を順次潰していったわけだよね。劉邦自身は英布討伐の負傷がモトで死んだけど、最後の大物・英布まで倒せばやるべきことはやったって感じだろう。
呂后時代のゴタゴタは置いといて、呉楚七国の乱を手際よく片付けられた大きな理由は、この郡国制がうまく機能したからだ。呉楚七国は劉氏の身内争いではあるけど。
劉邦としては、本音では韓信や英布などに強大な権限を渡したくなかったけど、彼らの活躍で項羽に勝ったことを思えば仕方がなかった。七雄みたいな状態に戻したくはなかったけど彼らに叛かれたら漢帝国自体が潰れかねないからやむを得なかった。でも劉邦時代に他人の王を身内の王に取り替えて漢の天下が安定すると、諸国の王は邪魔になっていった。だから晁錯みたいなやり方が出てくる。
そうだね、韓信は素直に劉邦や蕭何に感謝して慕っていたと思う。
だったら「仮の斉王」なんて要求しなければいいのに(あくまで劉邦の下で)出世はしたかったから、蒯通の策を一部用いたりする。韓信はどっちみち影響力が大きくなりすぎたから徹頭徹尾劉邦に従い続けても結局は討伐されたとは思うけど、韓信自身の態度も、逆らわないという一線は守っても仮の斉王を要求したり垓下の戦いではすぐに馳せ参じなかったりと、中途半端な態度を取るから余計に劉邦に疑われる。劉邦をそこまで慕うのなら、もっとイエスマンになればいいのに、って思う。蒯通の言う理屈自体は分かってたから、蒯通の言う通りに反逆すればいいんだけど、韓信自身がそれは絶対に嫌だということであれば真逆に劉邦のご機嫌を取り続けることしか生存戦略は無かったはず。なのに出世欲はあるからそっちもできなかった。
そういう韓信の「政治的な先見の無さ」というか不完全さというか不器用さというか。そこがまた魅力なんだよな。