南雲スレNo.9。これまで過疎やら限界集落やら無人島寸前というネーミングでしたがとうとう無人島宣言。この先どうなることやら?
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前スレは終了に3年かかりました! 最長記録!←喜ぶな
今回はいつまでかかるか乞うご期待!
私はむしろ南宋以前のほうが好きかな
春秋戦国あたりとか
特に好きな人物とかはないけど
尊敬するのは劉秀、共感するのは屈原みたいな感じ
>>160
劉秀を尊敬するのめっちゃわかる!
あの人リアル主人公すぎてヤバいよね。
部下の将軍の危機にさっそうと現れて勝利をかっさらうのエグいし。
皇帝になってからも先陣切って戦うし(部下も信頼してるから止めないし)。
妻の陰皇后には「ジョーク言いすぎて嫌い」って言われるし、皇帝になってるのに身内には諱で呼ばれるし。
皇帝になってからは政務に勤しみすぎて息子に心配されるし。
しかもその返答が「楽しんでるから疲れない」だし。
聖王って呼ばれるのが鬱陶しいって理由で「聖」って言葉を禁止するし。
後漢っていう平和な時代を作ったのにもかかわらず、死ぬ時に「自分は人の役に立てなかった」っていうし。
もうかっこよすぎてヤバい。
中国史なら私も南宋以前が好きだね。
南宋以降は政治機構とかややこしいし。
でも明の永楽帝辺りのゴタゴタは好き。
>>161
私が劉秀を尊敬するのは、普段は「石橋を叩いても渡らない」ほどの慎重居士でありながらここ一番では大勝負ができること。
職制の大司空、大司馬などから「大」を取り除いて身の丈に合った称号にしたこと。
近所のオバさんたちから「あんたみたいな豪快でも何でもない人が皇帝になるなんて」と驚かれると「政治の道においてもまた柔の道でやる」と答えたこと。
「隴を得て蜀を望む」の言葉のように自省できること。
イメージとして、天下人という雲の上の存在というよりは、なんか身近に感じるんだよね。天下をとってからも謙虚さを持ち続けたような。
惜しむらくは後漢の皇帝は早死にばかりで外戚と宦官の主導権争いの場と化して弱体化していった。
永楽帝かあ。明の全盛期を築いた人だけど、建文帝を滅ぼしたのはあまり好きじゃない。
そうしなければ自分がやられていたかもしれないけど、建文帝の性格から当時は燕王の永楽帝を殺しそうな雰囲気はなかったからなあ。
皇帝としては永楽帝のほうがはるかに優れてるけど、お付き合いするならあまり能力なくて優柔不断でも建文帝を選ぶよ。
>>162
身近に感じるのはすごくわかるよ。
部下もその人間性を知ってるからズバズバ意見するんよね。
しかも戦時中はほぼ無敗で歴戦の将軍たちですら恐れるほどの武人だったのに、戦後は武力を捨てて徴兵制をなくして常備軍に農耕させるほどの徹底ぶり。
そこも痺れる。
ちなみに『三略』の作者は劉秀なんじゃないかっていう説もあるんだよね。
「柔の道」みたいに『三略』からの引用が目立つのと、『三略』が兵法書の中でも政治書の側面が強いことが大きい。
また、劉秀は兵法書を机上の空論として嫌ってるような描写もあって、「兵法などはただ書かれたものに過ぎず実際の役に立たない」って言ってたり、皇太子(後の明帝)に「兵法について教えてほしい」と言われた時、「お前には必要ない」と言ったエピソードもある。
まあこっちは「皇帝に兵法はいらない」っていうことでもありそうだけど。
『三略』の伝承としては『六韜』とともに太公望が書いたもので、黄石公っていう仙人が張良に渡した兵法書って言われてるんだけど
当時にはなかった騎馬戦のことや「将軍」という言葉、また韓信の言った「狡兎死して良狗烹らる」のところが登場したり、前漢末の書物がほぼ全て記されてる『漢書』文藝志にも載ってないっていう明らかに前漢以降に書かれたことがわかってる。
しかも劉秀の「柔や剛を上手く使う」やり方にバッチリハマってるんよ。
だから、皇太子に「これがお前の兵法書だ」とか言って渡したのが『三略』の可能性があるんだよね。
また他にも根拠があって、それは『三略』が『六韜』『貞観政要』『李衛公問対』なんかと違って問答形式じゃないこと。
これは皇帝に献上する時、臣下が自分の言葉で教えるのは失礼にあたるっていうのもあって、基本は太公望と武王とか、後の唐太宗と李靖のようないわゆる聖王と呼ばれる人たちが問答してるところから学ぶのが一般的だったそう。
それから外れる『三略』は、劉秀が皇太子にあげた書物だからという話。
劉秀なら「これがお前の読む兵法書だ」ってコレを渡す姿が見えるくらいわかるんだよね。
永楽帝の事件は、あれはそもそも父親が悪いんよ。
功臣みんな殺してしまうし。
皇族殺して皇帝につく例は隋煬帝や唐太宗もやってるし、多少悪逆非道でもやらなきゃいけない部分ではある。
私も事件が好きで永楽帝自体はあんまりだけど、いちばん嫌いなのは洪武帝朱元璋だね。笑
好きな皇帝は劉秀を除けば漢文帝、あと李世民かな。
ちょっとダーティーで煬帝と比べられるし彼自身も煬帝コンプレックスがあったと思うけど。
武将まで行くと韓信が好き。
『三略』は読んだことあるけどよくセットで語られる『六韜』とはまるで別物だった。
『六韜』は兵法書というより謀略の書。藤原氏が愛読しただけのことはある。『三略』は兵法書で政治学書で哲学書みたいな。
太公望ってのはまったく信憑性がないっていうかほとんど否定していいし、黄石公も実在したとは思えないので張良が持ってたかも確かに怪しい。
張良はもとから韓の宰相家の出身だから若い頃からいくらでも兵法を学ぶ機会はあった。さらに始皇帝暗殺に失敗してから項伯のもとに身を隠してたからそこでも学ぶ機会があった。
だから『三略』の作者が劉秀でもおかしくない。
すると疑問なのは、劉秀がなぜ自分が皇太子のために作ったことを秘密にして、太公望なり黄石公を出さなければいけなかったのかになる。劉秀が謙虚だからじゃ納得できない。自分の著作であることを隠さなければならなかった理由は何だったのか。
洪武帝がアレなのはもちろんよ。劉邦以上の出世物語ではあるし猜疑心にとりつかれたのも劉邦と共通するけど、劉邦は陽、朱元璋は陰、って感じ。
永楽帝は建文帝の存在自体を抹殺してるのがちょっとね。そんな皇帝いませんでしたって。普通は、暴君だから倒したとか倒さなきゃ殺されるところだったので仕方なくとか、そういう理由を立てるのに。煬帝だって本来の皇太子が楊勇だった事実は消してないし唐太宗もいろいろ脚色はしてても皇太子が李建成だった事実までは消してない。
結局、永楽帝が明の全盛時代を築いたから皇帝としては素晴らしかったんだろうけどね。
誰の家来になるのが嫌かと言われるとそりゃ朱元璋。生きた心地がしない。
あー私も韓信は大好き。兵を用いては天才なのに、蒯通の策で劉邦を裏切ることができずに破滅した弱さもあって。友人の情で鍾離眜をかくまったり、それがバレても劉邦には逆らえなかったり、政治的な問題になると優柔不断になっちゃう。私はそういう強さと弱さを併せ持った人が好きだな。
>>164
伝説は流出してから結びついたんじゃないかなと安易に思ったり。
作者不明の謎については、
そもそも劉秀は兵法のことを嫌ってた手前、大々的に兵法書を書いたとは言いにくいとか、
あとは、明帝にだけ渡したかったから作者不明にしたとかかなって。
劉邦に関してはちょっと弁護したい。
劉邦は自分が逃げるためなら子どもまで捨てるような人だけど、当時の流れにもよると思うんだ。
というのも、もともと陳勝は旧六国を復活させて自分たちもちゃっかり王にはなってるものの、基本は六国の一族から王になってるんだよね。
要は当時は何もしてなくても一族だったからという理由で王になれた時代だった。
で、「そういうのおかしい!」って言ったのが項羽。
彼はそんな王を無くして国を細分化、それを功臣たちに分け与えた。
劉邦はそこから項羽を制したから、敵対してた項羽のやり方を否定したかったんじゃないかなと。
韓信は一飯千金のエピソードが好き。
恩返しする話。
律儀だなぁと思えるエピソードだよね。
>>167
『三略』が劉秀の作だとして、どういうつもりだったのか想像するのも面白いね。
陳勝は成り行きで旗揚げしたこともあって、かなり行き当たりばったりだったよ。たとえば陳勝は自分のことを始皇帝に自決を命じられた長男の扶蘇だと名乗ったり、相棒の呉広は秦に滅ぼされた楚の名将・項燕を名乗ったり。反乱が一定成功して、陳を占領してから国号を「張楚」にしたけど六国復活はむしろ自然発生的な流れだったはず。張耳や陳余が趙を復活させたのも、陳勝の意志に反する独立だったわけだし。
単純な「反秦」から「六国復活」の大義名分になったのは范増が懐王を戴くように項梁にすすめたせいじゃないかな。
項羽の論功行賞は不公平だったけど、基本的な考え方は「より多くの人を王にして喜ばせること」と「細分化することで巨大勢力の出現を防ぐこと」だったと思う。その考え方自体には一理あるけど、やり方は周の封建制と変わりないんだよね。
劉邦は、というより張良が中心だったはずだけど、周や項羽のやった封建制と秦の郡県制の失敗を見て、両者を混ぜ合わせた。どういう体制が長続きするかを考えると、封建制では中央の権力が弱くなりすぎて、郡県制では地方の反乱に対応できなかった。だから強力な中央政権とそこそこの地方政権という形になった。策略はともかく政治力では、范増よりも張良が上だったってことだと思う。
韓信が老婆に恩返しした話だね。
韓信はそういう律儀さがあるのが魅力だし、律儀だから劉邦への恩義を大切にして破滅しちゃった。
最後は「あのとき蒯通の策を用いていたら…」とか後悔して余計なことを言ったせいで蒯通までつかまっちゃうという。
戦の天才であっても、戦以外では普通のマジメな人っていう感じがいいな。
蒯通は韓信を天下人にしようとしてたけど、天下人は前にオビディが言ってた李世民みたいに「やるときはやる」ような冷酷な決断力も必要だから、やっぱり韓信の天下では続かなかったと思う。いい人すぎて。
>>169
面白いのわかる!
まあいちばんは作者が判明することだけどね。
例えば「兵法三十六計逃げるに敷かず」で有名な、『三十六計』の作者が檀道済だっていうのが2009年(だったかな?)にわかったっていうのを知ってビックリしたのを覚えてる。
2017年くらいにもそんなニュースが流れたようなことがあったけど。
ごめん、陳勝や項羽、劉邦の建国の流れについては読んでた資料を誤解してた。
南雲さんの流れであってるわ。
李開元 [著]『漢帝国の形成とその権力構造 : 軍功受益階層の研究』. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3163341 (参照 2025-03-28)
この論文の第二章の第二節にある「陳勝の復国建王と平民王政」ってところなんだけど、ここに「戦国復国の創始者は陳勝である」って書かれてて、ずっと陳勝たちが六国を建てたんだと思い込んでた。
よくよく読んでみると、陳勝が復国運動のキッカケになったくらいのニュアンスで書かれてあるだけだったよ。
しかも、陳勝の張楚建国の論理が項羽に受け継がれて、その論理と六国復活の論理が融合して後の漢王朝につながったって話だった。
いろいろすっ飛ばしてたね。
ただ、私が言いたかったのは、もともとは何もしなくても一族ってだけで王になれた→項羽のおかげで論功によってしか王になれなくなった→劉邦は項羽を否定して一族による王に戻した(ただし劉一族だけ)ってことだった。
だから単純に猜疑心によるものじゃないって話。
秦末当時の常識として反秦=自国の復活→六国の復活だったと思うよ。
ただ、陳勝みたいに自分が王になるっていう発想はなくて、王家の子孫を探し出して王に据えて自分は諸侯に任命されるくらいの感覚だったんじゃないかなと。
それが陳勝の楚王即位で前例ができてしまったって感じ。
ちなみに陳勝の王即位の論理は2つあって、「反秦蜂起を最初にしたから」と「楚を復活したから」というものだった。
反秦蜂起は軍功で、楚の復活は徳によるものだったわけ。
范増はそんな陳勝を批判したんだけど、張耳や陳余も陳勝の即位に否定的だったことを鑑みるとやっぱり当時の常識としておかしかったんだと思う。
その後、楚には懐王がたち、燕を除いてすべての王が王族の子孫に変わった。
しかし項羽はこの王族の世襲制を認めず、軍功による支配だけを認めたかった。
考えてみればそうで、項一族は貴族であって王族じゃないから、自分が王になる論理と懐王が王である論理が一致しないんだよね。
でも今の王をいきなり殺す訳にもいかないから、当初は王を認めつつも功臣を王に据えた。
だから国を分けざるを得なかったって感じ。
漢の時代になると、楚と燕以外は七国とだいたい同じで、秦が漢になったくらいだった。
特に楚は敵国だったから分けられるのは当然だったし、燕に関しても陳勝時代からの王だったから分けられた。
つまりこの時代は論理としては軍功による支配だったんだけど、体裁としてはもとの戦国七雄支配に戻りつつあったんだよね。
その後、劉氏の王に変えられて、功臣は諸侯に変わっていった。
ここから劉氏による世襲制に変わったって感じ。
ちなみにその論文には呂氏政権時代、文帝や景帝の時代までが書かれてるけどここでは割愛するね。
だから私は漢の郡国制は、項羽の否定≒六国の復活だったんじゃないかなと思ってるんよ。
で、これを書いてて思ったんだけど、単純に項羽の否定だけじゃなくて、それほどまでに秦の統一が当時の人々に受け入れられなかったかのどっちかかなと思う。
韓信は律儀さっていうのもあるけど、シンプルに自分を見つけてくれた蕭何や大将軍にしてくれた劉邦のことを心から慕ってたんだと思う。
そりゃもともと誰かの目に止まるような人間じゃなかったのに、夢であった大将軍にしてくれたんだから、めちゃくちゃ嬉しかっただろうしね。
しかも最後の最後ですら蕭何を信用して捕らえられてるから、時代が時代じゃなきゃもっと幸せになれただろうなって思う。
たぶん韓信自身は天下なんて夢とすら思ってなかったんじゃないかな。
蒯通の謀略聞いた時も当時は「項羽と劉邦の両方の兵と戦えるなぁ」くらいにしか思ってなさそう。
まあ劉邦が猜疑心にとらわれたのは事実でも、劉氏しか王になれないようにしたのは計画的な部分もあったかもしれない。多分、猜疑心で身内しか信じられなくなった面と、劉氏で天下の全権を握ろうという計算の両面があったのかと推測する。
ただ燕王盧綰まで匈奴に逃げなきゃならなくなったのは、猜疑心の強さが相当表れてると思う。
陳勝は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と言ったから、その論理で自分が王になったんだろう。ただ陳勝は特に知識人でもなかったから当時の社会でそれが受け入れられるかどうかまでは考えが至らなかった。
「反秦」という意味では「旧六国の復活」をスローガンにするのが最も共感を得やすかっただろう。特に楚は、「楚は三戸といえども秦を滅ぼす者は楚」というほど秦への憎悪が激しかった。
しかしオビディも言ってるように、項羽自身が楚の将軍の家系で王族じゃないから、自分が天下に君臨するには旧六国の血統とは別の基準を作らないといけない。そこで功臣を王に封じた。ただ項羽の天下は短かったから実現はしなかったけど、仮に続いていたら項羽の封じた王がまた世襲で王位を継いだはず。天下統一後には王になるほどの功臣なんてそんなに出ないから。だから建国の功臣に各地を統治させてそれを世襲させる形になるけどそれって周のやったことの再現だと思う。周の武王が項羽になっただけで、そういう構想しか持てなかったのは、項羽や范増の限界だったと思う。
秦は李斯の意見で全国を皇帝が直轄支配する体制だった。それだと陳勝や旧六国の復国運動を鎮圧できなかった。だから劉邦の時代には秦と周、もしくは項羽の体制を折衷したわけだけど、劉邦の猜疑心のせいか計画的か、功臣の王を順次潰していったわけだよね。劉邦自身は英布討伐の負傷がモトで死んだけど、最後の大物・英布まで倒せばやるべきことはやったって感じだろう。
呂后時代のゴタゴタは置いといて、呉楚七国の乱を手際よく片付けられた大きな理由は、この郡国制がうまく機能したからだ。呉楚七国は劉氏の身内争いではあるけど。
劉邦としては、本音では韓信や英布などに強大な権限を渡したくなかったけど、彼らの活躍で項羽に勝ったことを思えば仕方がなかった。七雄みたいな状態に戻したくはなかったけど彼らに叛かれたら漢帝国自体が潰れかねないからやむを得なかった。でも劉邦時代に他人の王を身内の王に取り替えて漢の天下が安定すると、諸国の王は邪魔になっていった。だから晁錯みたいなやり方が出てくる。
そうだね、韓信は素直に劉邦や蕭何に感謝して慕っていたと思う。
だったら「仮の斉王」なんて要求しなければいいのに(あくまで劉邦の下で)出世はしたかったから、蒯通の策を一部用いたりする。韓信はどっちみち影響力が大きくなりすぎたから徹頭徹尾劉邦に従い続けても結局は討伐されたとは思うけど、韓信自身の態度も、逆らわないという一線は守っても仮の斉王を要求したり垓下の戦いではすぐに馳せ参じなかったりと、中途半端な態度を取るから余計に劉邦に疑われる。劉邦をそこまで慕うのなら、もっとイエスマンになればいいのに、って思う。蒯通の言う理屈自体は分かってたから、蒯通の言う通りに反逆すればいいんだけど、韓信自身がそれは絶対に嫌だということであれば真逆に劉邦のご機嫌を取り続けることしか生存戦略は無かったはず。なのに出世欲はあるからそっちもできなかった。
そういう韓信の「政治的な先見の無さ」というか不完全さというか不器用さというか。そこがまた魅力なんだよな。