>>169
面白いのわかる!
まあいちばんは作者が判明することだけどね。
例えば「兵法三十六計逃げるに敷かず」で有名な、『三十六計』の作者が檀道済だっていうのが2009年(だったかな?)にわかったっていうのを知ってビックリしたのを覚えてる。
2017年くらいにもそんなニュースが流れたようなことがあったけど。
ごめん、陳勝や項羽、劉邦の建国の流れについては読んでた資料を誤解してた。
南雲さんの流れであってるわ。
李開元 [著]『漢帝国の形成とその権力構造 : 軍功受益階層の研究』. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3163341 (参照 2025-03-28)
この論文の第二章の第二節にある「陳勝の復国建王と平民王政」ってところなんだけど、ここに「戦国復国の創始者は陳勝である」って書かれてて、ずっと陳勝たちが六国を建てたんだと思い込んでた。
よくよく読んでみると、陳勝が復国運動のキッカケになったくらいのニュアンスで書かれてあるだけだったよ。
しかも、陳勝の張楚建国の論理が項羽に受け継がれて、その論理と六国復活の論理が融合して後の漢王朝につながったって話だった。
いろいろすっ飛ばしてたね。
ただ、私が言いたかったのは、もともとは何もしなくても一族ってだけで王になれた→項羽のおかげで論功によってしか王になれなくなった→劉邦は項羽を否定して一族による王に戻した(ただし劉一族だけ)ってことだった。
だから単純に猜疑心によるものじゃないって話。
秦末当時の常識として反秦=自国の復活→六国の復活だったと思うよ。
ただ、陳勝みたいに自分が王になるっていう発想はなくて、王家の子孫を探し出して王に据えて自分は諸侯に任命されるくらいの感覚だったんじゃないかなと。
それが陳勝の楚王即位で前例ができてしまったって感じ。
ちなみに陳勝の王即位の論理は2つあって、「反秦蜂起を最初にしたから」と「楚を復活したから」というものだった。
反秦蜂起は軍功で、楚の復活は徳によるものだったわけ。
范増はそんな陳勝を批判したんだけど、張耳や陳余も陳勝の即位に否定的だったことを鑑みるとやっぱり当時の常識としておかしかったんだと思う。
その後、楚には懐王がたち、燕を除いてすべての王が王族の子孫に変わった。
しかし項羽はこの王族の世襲制を認めず、軍功による支配だけを認めたかった。
考えてみればそうで、項一族は貴族であって王族じゃないから、自分が王になる論理と懐王が王である論理が一致しないんだよね。
でも今の王をいきなり殺す訳にもいかないから、当初は王を認めつつも功臣を王に据えた。
だから国を分けざるを得なかったって感じ。
漢の時代になると、楚と燕以外は七国とだいたい同じで、秦が漢になったくらいだった。
特に楚は敵国だったから分けられるのは当然だったし、燕に関しても陳勝時代からの王だったから分けられた。
つまりこの時代は論理としては軍功による支配だったんだけど、体裁としてはもとの戦国七雄支配に戻りつつあったんだよね。
その後、劉氏の王に変えられて、功臣は諸侯に変わっていった。
ここから劉氏による世襲制に変わったって感じ。
ちなみにその論文には呂氏政権時代、文帝や景帝の時代までが書かれてるけどここでは割愛するね。
だから私は漢の郡国制は、項羽の否定≒六国の復活だったんじゃないかなと思ってるんよ。
で、これを書いてて思ったんだけど、単純に項羽の否定だけじゃなくて、それほどまでに秦の統一が当時の人々に受け入れられなかったかのどっちかかなと思う。
韓信は律儀さっていうのもあるけど、シンプルに自分を見つけてくれた蕭何や大将軍にしてくれた劉邦のことを心から慕ってたんだと思う。
そりゃもともと誰かの目に止まるような人間じゃなかったのに、夢であった大将軍にしてくれたんだから、めちゃくちゃ嬉しかっただろうしね。
しかも最後の最後ですら蕭何を信用して捕らえられてるから、時代が時代じゃなきゃもっと幸せになれただろうなって思う。
たぶん韓信自身は天下なんて夢とすら思ってなかったんじゃないかな。
蒯通の謀略聞いた時も当時は「項羽と劉邦の両方の兵と戦えるなぁ」くらいにしか思ってなさそう。
まあ劉邦が猜疑心にとらわれたのは事実でも、劉氏しか王になれないようにしたのは計画的な部分もあったかもしれない。多分、猜疑心で身内しか信じられなくなった面と、劉氏で天下の全権を握ろうという計算の両面があったのかと推測する。
ただ燕王盧綰まで匈奴に逃げなきゃならなくなったのは、猜疑心の強さが相当表れてると思う。
陳勝は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と言ったから、その論理で自分が王になったんだろう。ただ陳勝は特に知識人でもなかったから当時の社会でそれが受け入れられるかどうかまでは考えが至らなかった。
「反秦」という意味では「旧六国の復活」をスローガンにするのが最も共感を得やすかっただろう。特に楚は、「楚は三戸といえども秦を滅ぼす者は楚」というほど秦への憎悪が激しかった。
しかしオビディも言ってるように、項羽自身が楚の将軍の家系で王族じゃないから、自分が天下に君臨するには旧六国の血統とは別の基準を作らないといけない。そこで功臣を王に封じた。ただ項羽の天下は短かったから実現はしなかったけど、仮に続いていたら項羽の封じた王がまた世襲で王位を継いだはず。天下統一後には王になるほどの功臣なんてそんなに出ないから。だから建国の功臣に各地を統治させてそれを世襲させる形になるけどそれって周のやったことの再現だと思う。周の武王が項羽になっただけで、そういう構想しか持てなかったのは、項羽や范増の限界だったと思う。
秦は李斯の意見で全国を皇帝が直轄支配する体制だった。それだと陳勝や旧六国の復国運動を鎮圧できなかった。だから劉邦の時代には秦と周、もしくは項羽の体制を折衷したわけだけど、劉邦の猜疑心のせいか計画的か、功臣の王を順次潰していったわけだよね。劉邦自身は英布討伐の負傷がモトで死んだけど、最後の大物・英布まで倒せばやるべきことはやったって感じだろう。
呂后時代のゴタゴタは置いといて、呉楚七国の乱を手際よく片付けられた大きな理由は、この郡国制がうまく機能したからだ。呉楚七国は劉氏の身内争いではあるけど。
劉邦としては、本音では韓信や英布などに強大な権限を渡したくなかったけど、彼らの活躍で項羽に勝ったことを思えば仕方がなかった。七雄みたいな状態に戻したくはなかったけど彼らに叛かれたら漢帝国自体が潰れかねないからやむを得なかった。でも劉邦時代に他人の王を身内の王に取り替えて漢の天下が安定すると、諸国の王は邪魔になっていった。だから晁錯みたいなやり方が出てくる。
そうだね、韓信は素直に劉邦や蕭何に感謝して慕っていたと思う。
だったら「仮の斉王」なんて要求しなければいいのに(あくまで劉邦の下で)出世はしたかったから、蒯通の策を一部用いたりする。韓信はどっちみち影響力が大きくなりすぎたから徹頭徹尾劉邦に従い続けても結局は討伐されたとは思うけど、韓信自身の態度も、逆らわないという一線は守っても仮の斉王を要求したり垓下の戦いではすぐに馳せ参じなかったりと、中途半端な態度を取るから余計に劉邦に疑われる。劉邦をそこまで慕うのなら、もっとイエスマンになればいいのに、って思う。蒯通の言う理屈自体は分かってたから、蒯通の言う通りに反逆すればいいんだけど、韓信自身がそれは絶対に嫌だということであれば真逆に劉邦のご機嫌を取り続けることしか生存戦略は無かったはず。なのに出世欲はあるからそっちもできなかった。
そういう韓信の「政治的な先見の無さ」というか不完全さというか不器用さというか。そこがまた魅力なんだよな。
「最近の若い人」にもしっかりした人が多くて古い人にも無茶苦茶な人がたくさんいるから
世代はあんまり関係ないよなと普段は思いつつ
個人個人はともかく若者全般にすごく不安を覚える場面もある…
…なんて考えてる時点で老害なのかもしれんが
価値観をアップデートできてる間は大丈夫だろうと思ってる
自分の今現在の価値観を進化させられなくなって他人にも押しつけるようになったら老害というのが私の認識
しかしどれくらいまでを「若い」と言うんだろうな
未成年は若いというより子供だし20代は若いと言って差し支えなかろう
あとは自分との比較か…
30代からみると20代が「若い」の上限くらいだろうし
90代からみると「若者」の感覚がどこまで広がることやら
社会一般で「若者」で通用するのはやっぱ20代までなのかな?
政治家の世界では50代でも「若い力」とか言えるかもしれんけどそんな特殊な世界は別として
今考えると平成っていう時代は閉塞感こそ出てきてはいたけどすごくなんというか
文字通り平らな世の中だったと思う
平成元年から令和元年の30年間に世の中がどれほど変わったかというと基本的に変わってない気がする
たとえば昭和30年から昭和60年の30年間では大きく変わってるし令和はどうなるだろう…と考えると
昭和とは逆にネガティブな意味合いで大きく変わってるビジョンしか見えない…
平成の日本って大半がバブル崩壊後だから下り坂の30年ではあったけどゆるやかな下り坂っていうのかな
比較的平坦だったけど令和時代はそうはいかない気がして
らくえんも中高生メインだったのにいつの間にかおっさんの集まり化しつつあるというね
経験と教養が熟成された老人を目指していきたい
>>179
老化ねえ…個人差もあるだろうけど正直30代前半くらいまではほとんど自覚症状がなかったな。
その代わりその後は加速度的に自覚するようになってきた。
やっぱり最初に感じるのは、頭の回転でもなく持久力でもなく、体が疲れた後の回復の早さかな。これだけは私の場合は30代で少しずつ表れてきたな。疲れやすいわけじゃないけど疲れたあとに戻るのに時間がかかる。
身体的に「若くない」というのはそれを感じた頃から始まるのかな。
だからこうした方が、ってのはどうにもならない部分ではあるが、せめて遅らせるなら一般的に言われる健康的な生活を送ることじゃないかなあ。
私はできなかったというかしなかったけど。
ゆとり教育も散々叩かれたが、なんだかんだみんなそれなりに適応してる
社会自体は古いシステムで動いていることの方が多いから、結局その歯車に乗らざるを得ない
最初はズレが目立つんだけど、何年かすれば歯車の一員になれちゃうんだよなあ
ゆとり教育全盛の自分としては、歯車を演じつつゆったりやっていきたい!!
まだまだ人生を謳歌しきれていないので何歳になっても、今から始めても遅くないしなんでもできる的な気持ちを持っていきたいですね……
カップ麺が胃にもたれるようになってきてやばさは感じてるけど……(._."Ⅱ)