南雲7 平成から令和へ

155南雲@お人好し
2019-07-01 03:17:32
ID:PBfamily

スタート地点は魏の帯方郡だけど、100%確定しているのは一支国(長崎県壱岐、原の辻遺跡)まで。なにしろ対馬とか壱岐は島なんで他に候補がありえない。次の末廬国も、佐賀県東松浦半島というのがほぼ定説なんだけど、上の徳島説のように別の場所を考える人もいるから、ここから別れてくる。

まず距離について。

一支国から末廬国、伊都国、奴国、不弥国までは千里とか五百里とか、里数で記述されている。当時の中国には長里と短里とがあって、同じ「一里」でも二種類の距離がある。しかし長里ではどう考えてもおかしくなるので、短里(一里約76m)で計算するのがほぼ定説。

ただ、短里といってもかなり大ざっぱと言われている。狗邪韓国(韓国釜山市周辺)→対馬国→一支国→末廬国という、明らかに距離の異なる国どうしの距離が全部「千里」と書かれているから。
そうは言っても上の邪馬台国徳島説では厳密に千里で計算するので、末廬国が東松浦でなく、宗像になってる。

また、不弥国→投馬国は「水行二十日」と、距離ではなく所要日数で記録されているから、ますます距離がわからない。そして最後の投馬国→邪馬台国は「水行十日陸行一月」とやっぱり所要日数であるうえ、陸行の所要日数は地形によって変わるのでもっと分からない。

それでも、不弥国→投馬国→邪馬台国は相当の日数がかかってるわけで、この方角が全部「南」なので、そのまま考えると鹿児島よりずっと南になってしまう。

畿内説では、この最終部分の「南」を「東」の間違いだと解釈する。つまり方角が間違ってるとするのが畿内説。でも、そもそも当時の中国人は方位磁石を持っていたし、太陽や星の位置からも方角はわかるので、方角を間違えることはありえない。じゃあどういうことなのかと言うと、『魏志倭人伝』は生の記録ではないということに注目する。生の記録を何度か書き写して要約したものが『魏志倭人伝』で、元の記録は失われていることから、書き写しの時に写し間違えたと考える人が多い。

この「写し間違え」は、『魏志倭人伝』では国名が「邪馬壹國(邪馬壱国)」、卑弥呼の後継者の名前も「壹與(壱与)」であり、『後漢書』などでは国名が「邪馬臺國(邪馬台国)」、後継者の名前も「臺與(台与)」というように表記にズレが起きていることから、あり得なくない。一方で古田武彦の「邪馬壱(ヤマイ)国説」のように、もともと邪馬台国じゃなく邪馬壱国なのだとする人もいる。

九州説では、いくらなんでも方角は間違えないと考える(多少大ざっぱでも)。壹と臺は字体が似ているので間違えても、東と南は似てもいないので写し間違えるわけがないとする。ところが、方角が間違っていなければ邪馬台国は鹿児島の南海上になる。そこでどうにか距離を縮めようとするのが九州説の人たちだ。

最も代表的な方法が、「伊都国起点放射読み」。記述されている文法が、伊都国までと伊都国から先とで変化していることに着目する。伊都国までは、「東南陸行五百里到伊都国」のように、方角→距離→国名という順で記載されているのに、伊都国から先は「東南至奴国百里」のように、方角→国名→距離(または所要日数)というように記述方法が変わっている。これを理由に、「連続読み」(伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国)をせず、「放射読み」(伊都国→奴国、伊都国→不弥国、伊都国→投馬国、伊都国→邪馬台国)をする。起点となる伊都国には、邪馬台国や魏の出先機関らしきものがあった拠点であることも根拠になる。

このやり方では、邪馬台国は「伊都国から水行十日陸行一月」の場所になるから、かなり距離が短縮される。さらに、「水行十日陸行一月」も、水行十日してから陸行一月する読み方(AND説)と、水行すれば十日、陸行すれば一月とする読み方(OR説)とがある。距離を縮めたい九州説ではOR説のほうが都合がいい。

九州説が畿内説を「方角を間違えるなんてあり得ない」と言えば、畿内説が九州説を「距離を縮めるために読み方を無理しすぎ」と反論する。そんな状態だ。

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