大阪の陣、「真田幸村の奮戦」でも敗れたワケ 豊臣秀頼が「あの選択」さえしなければ…
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ありえない。
ここのQ7とQ8の回答はありえません。
・豊臣家の移封は甘い措置だったのか
>関ヶ原で徳川に歯向かった大名は「領地召し上げ」「取り潰し」になっています。「大和国、伊勢国への国替え」は、処遇としてはむしろかなり甘い措置ともいえ
関ヶ原の戦いの本質を完全に見誤っています。関ヶ原で徳川に逆らったのは石田三成・毛利輝元・宇喜多秀家らであり、豊臣秀頼は逆らっていません。それどころか、徳川家康は関ヶ原の戦いを「豊臣家の家臣として豊臣家を正す」という建前で戦っています。家康が逆らったわけでもなく、まして秀頼が家康に逆らったなどと家康は口が裂けても言えませんでした。
関ヶ原を「豊臣vs徳川」に位置づけたのは石田三成のほうであり、家康はあくまで「豊臣家の家臣どうしの勢力争い」という立場をとっていました。だからこそ、加藤清正や福島正則といった秀吉子飼いの豪傑が家康方についたのです。福島正則は関ヶ原の後、豊臣家が65万石に減封されたことを不当な扱いとして怒り心頭に発していましたが、家康に逆らえるわけもなく我慢しました。
・秀頼が大和や伊勢への移封を受け入れたら豊臣家は存続できたか
>豊臣家は存続し、豊臣の天下を再興する機会もあったかもしれません。
とんでもありません。徳川家から見ると、豊臣家は最も危険で恐ろしい存在なのです。勢力こそ衰えても権威は失われていません。徳川家の支配に不満を持つ者は、いつでも豊臣家に集まってくるのです。
確かに、家康の寿命を考えれば、秀頼が移封を受け入れていたら家康は豊臣家を滅ぼす前に死んだでしょう。しかし二代将軍秀忠が「江戸幕府で何をやったか」を考えれば、このまま豊臣家が放置される可能性は完全にゼロでした。秀忠は江戸幕府にとって危険と見なされた勢力を徹底的に排除する政策をとっています。それは、大手柄をあげた徳川家の重臣・本多正純すら叩き潰したほどの徹底ぶりです。
この、強権人物である徳川秀忠が、幕府最大の脅威である豊臣家をほったらかしておく可能性は完全にゼロで、1%もありません。
豊臣家が移封を受け入れて大和なり伊勢なりに移ったら、しばらくしてまた難癖をつけられて10万石程度の大名にもう一度移動させられて、無力化したところを滅ぼされるのは間違いありません。
豊臣秀頼はそれが分かっていたから、どうせ滅ぼされるならば大坂でという道を選んだのでしょう。