https://president.jp/articles/-/71813
いやいや、これは不自然だと思うよ。
①本能寺の変が起こったことを知った清玉上人が20人ほどの供を連れて駆け付けたが信長は自刃した後で、帰りかけた時に信長の近習たちが信長の遺体を荼毘に付しているところに出会う。
→1万5千の明智軍が血眼になって探しても見つからない信長を、清玉上人が帰りかけた時に偶然みつけた。ありえないような偶然。
②信長の近習たちが火葬しようとしていた信長の遺体を「それは出家の役目だから」ともらい受け、近習たちは喜んで清玉上人に任せて自分たちは討ち死にした。
→信長が最も信頼していた明智光秀がまさかの謀叛を起こした直後に、近習たちがなぜ「信長と懇意にしていた僧」にその遺体を渡せるのか。信長が「遺体を敵に渡すな」と遺言したならなおのこと。いくら清玉上人が朝廷で重きをなす僧でも、光秀も朝廷とは懇意なので、近習がやすやすと偶然その場に現れた清玉上人を信用できるわけがない。
③4ヶ月後、秀吉が阿弥陀寺で葬儀を行おうとしたが清玉上人が拒否した。
→これは納得できる。当時の秀吉はまだ信長の後継者の地位を確立していなかったので、朝廷と縁の深い寺と喧嘩するわけにはいかなかっただろう。
④清玉上人が秀吉に信長の遺骨を渡さなかった理由が「秀吉が恩知らずだから」の旨、享保16年に記録されている。
→完全に江戸時代の史料。徳川家康は豊臣家を滅ぼして天下をとったのだから、信長の正式な後継者は家康という前提がある。豊臣秀吉を信長の正統な後継者と認めるわけにはいかない。江戸時代中期に「秀吉は恩知らずだから」と書かれた史料が、「大筋信用できる」わけがない。ただし、秀吉が本能寺の変を事前に知っていた可能性そのものは否定できない。それでもあくまで可能性にすぎない。
⑤本能寺の変の直後、信長の忠実な家臣によってその首が駿河国の西山本門寺に運ばれ供養された。
→駿河は家康の領土。信長の同盟国とはいえ他家の領地。信長の忠実な部下が信長の首を他家である家康の領地に運んで供養したというのは不自然だし、あからさまに「信長の正統な後継者は家康」と主張する行為。そんな伝承はまず江戸時代に作られた話と考えるべき。