機会均等はもちろん必要なこととして、教育内容や方法についてもなんでいいというわけじゃないから難しい。
…ってこの話題では難しい難しいばっかり言ってる気がするけど本当に難しい。
だから教育の内容は自由度の高い形で、しかし逸脱はできないようにしてほしい。
家庭内は本当に密室で極端なやり方をする親がいるからこれも放置はできないんだよね。
虐待的な親や反社会的な教育をする親。でも家庭はそんな極端な例だけ対応すればいいかもしれない。
子どもが幸せになるように育てるのが大人の責任(教育・保育に携わっていない人や自分の子どもがいない人にも一定の責任はある)であって、じゃあ何が幸せでどうすればそれに近づけるのかっていうのは分からないんだけど、正解はわからなくても明らかな不正解はわかる。
私が疑問をもつ自由教育自由保育(それ自体を否定するのではなくそれ一辺倒になることを否定する)の風潮は支持者が多いし専門家も勧めてるんで不正解ではないんだろうけど非常に危うさを感じる。
いや理念は良いと思う。子どもの潜在的な成長力を活かすという考え方は賛成できるんだけどね。
育てる側の考え方もそれぞれ、育てられる子どもの特性もそれぞれ、幸せの捉え方もそれぞれ、だから適切なやり方もそれぞれ。とはいえ学校なり保育園なり1カ所に集める以上、あるていど統一された方針は必要だし、その子が大人になったときの未来の世界は分からなくても現代の日本や世界をベースに推測される世界に適応できるように育てる必要がある。
「適応できるように育てる」なんて言い方をするとまた「大人の都合で型にはめるな」って苦情が出るんだけどね。私に言わせると子どもの成長を子ども自身に委ねるなんて幼児に人生の自己責任を負わせるのと同じだよ。正しかろうと間違っていようと社会で必要とされるスキルはある。人間社会も大自然もそんなに理想的に出来てはいない。
1990年代くらいだったかな…それくらい以降に「学級崩壊」が問題になった。ところが今じゃ「それは崩壊じゃなく正しい傾向」とすら言われたりする。
授業中、机に数分とついていられない→机につかなくていいじゃないか
学力が身につかない→学力より「生きる力」が大事だからそれでいい(じゃあ学力の代わりに生きる力とやらが身についてるのか)
授業がまったく成立しない→子どもがすすんで受けたくなる授業をやらない教員が悪い
本当にそれでいいのか?って言いたい。