割とマジでインターネットだけで学校の勉強は何とかなるんじゃないかと思う。
色んなサイトのリンクをまとめて「塾や通信教育にお金払ってるあなたは損してますよ!」っていうのをそれらの会社の経営が傾くくらい広められないかな。
【本スレについておしらせ】
先日、「令和2年中に終わる」予定だったこのスレを「令和2年度中に終わる」と訂正したところですが、もともとこのスレは平成31年4月30日に作られてたので、スレ立てしてからちょうど2周年を迎える令和3年4月30日までとするほうがキリが良いと考えるに至りました。
よって、スレ2周年記念日の「4月30日まで」に期間を修正します。
ネットでの勉強は、情報をただ取捨選択し、固有名詞を摂取して、ただそれだけで賢くなったと思い込んでしまうという点においてあまりに致命的
知識をダウンロードしただけで、それがまるで自らの知だと思い込むことの浅ましさ・・・
残念ながら受験勉強はそういう浅ましい勉強で突破できてしまう
いくら高学歴でもそういう人たちからは知性を感じないよね
学歴でうんたら言う人はだいたいこの残念な人たちが多い
所詮勉強なんて知識の再現にすぎない
創造の前では再現なんて何ら価値はない
音楽・美術・文学を中心とする芸術は無から生み出すという点において、最強の営みだと思う
しかし、これまた残念なことに芸術分野は「役に立たない」とレッテルを貼られ、教育の現場では実に肩身の狭い思いをしている
ネットには物知り博士はたくさんいるけど、賢い人たちはほとんどいない
自戒の念も込めてだけど、物知りにはなるにつれて馬鹿になっていってるとすら思う
一方で、ネットにはすごい芸術家に出会える機会もあったりして、そういう点ではやはり素晴らしいのです
漢の創始者・劉邦が天下を取るのに軍事面で大活躍した将軍韓信に、有名な戦法「背水の陣」がある。
兵法書には、布陣するときは川を前にしろっていうルールがあるのに、韓信は真逆に川を背後に布陣することで、少数の兵で大軍を打ち破った。
このとき他の将軍達が「なぜ兵法の逆をやって勝てたのか」と不思議がって、韓信が「兵法書を丸暗記してその通りにやるだけではダメ、要は兵法をいかに応用するかだ」と答えた。
知識ってそんなものだと思う。
インプットしたものをそのままアウトプットするのは単なる物知りであって賢さではない。
インプットした知識を消化して、状況によって適切に応用する人が賢いのだと思う。
「背水の陣」という言葉が有名になったら、今度は何も考えずに、単純に逃げ道を捨てて突き進むしかない状況に自分を追い詰めれば成功するんだ、と勘違いする人が大勢出る。応用力で定石を打ち破ってイレギュラーな方法で大成功した例を見て、そのイレギュラーが成功への定石だと思ってしまう。それこそ背水の陣を理解してない、韓信が「これじゃダメ」と言った、知識をそそまま使うやり方そのもの。
知識は材料、賢さは腕前みたいなものだと思う。
どれだけ材木を集めても立派な家が建つわけじゃない。一方で、どんなに腕が良くても、材木がなければ家は建たない。
ネットや本で材料は集まる。受験もなんとかそれでクリアできるだろう。賢さは、材料を集めたうえで、それを適切に組み立てて素晴らしい家を建てる能力だと思う。
思うに、じぇいそんが「物知りにはなるにつれて馬鹿になっていってる」と感じるのは、材木(知識)を集めることしかしない人のことだろう。自戒の念とも言ってるけど、じぇいそんの場合は今、材木を集めるスピードが加工するスピードを上回ってるせいで、手つかずの材木やら丸太の量が増えていってるからだと思う。手つかずの材料が山積みになってたら、自分の加工能力が悪いように見えてしまう。
でも、知識が体系的になってくると、あっちの知識とこっちの知識がだんだん結びつきやすくなっていく。バラバラのものが、断片的な結びつきを経て、だんだん巨大なネットワークを構築する。そうすると、新規に入手した知識も、どこに配置すればいいのか分かりやすくなっていく。ジグソーパズルの組立てが進めば進むほど加速度的に作業効率が上がっていく、それに似てると思う。
私がときどきじぇいそんの意見をアテにするのは、情報量だけでなく応用力もアテにしてるからだよ。
芸術とか創造力以前にその知識のダウンロードすらままならない人が大勢いるから、まずそっちを嘆くべきじゃない?
ひろゆきがAbemaTVで古典不必要論を語ってたのと同じで、世の中には勉強しておくべきことがあるのに、それをそっちのけにして芸術なんかやってる今の教育の仕方はやはり問題がある思う。
ていうか創造力を鍛えたいんなら脳トレやった方がいいよ。
脳の前皮質が発達することは既に東北大学の川島教授が論文を出してるし。
そういえばこの間令和版マネーの虎でワーキングメモリーを鍛えることに特化した塾を全国に展開したいという人がマネー獲得してたんだよね。
全国にワーキングメモリーの有用性を広めるいいきっかけになればいいな。
自分に創造性があるのかわからない
少なくとも今のところ、芽が出てない
現代文や数学ができても創造性が凡人なやつはいっぱいいる
ほしいなあ創造性
>>763
情報量に対して処理能力が追い付かない問題は確かにありますよねー
処理能力の低さを棚に上げて、情報さえ蓄えれば賢くなったと思い込んでしまう人たちが多いのが残念なところ
セレロンレベルのCPUしかないのに、ひたすらハードにデータを保存しまくるのってマジで滑稽でしかない
パソコンの場合はCPUを交換すれば済むけど人間の場合はそうもいかない
人間のCPUを上げるのは、とっても難しい
時間かかるし、地道なことをし続けるしか処理能力は上がらない
みんなそんなことはやってられないって投げちゃって、実利に目がくらんでそっちに行っちゃう
実際にCPUを高めたところで、実益に結び付くかって言われたら微妙だしね
ひたすらしこしこHDDにデータを貯めまくる方が多分実用性はあるんでしょう
ただ、その先に待つのは堕落か、それとも奴隷になるか
別に創造力はなくてもいいんだけど、自分の頭でものを考えられるようにはなった方が良いよね
その究極の形が芸術家だと思うけど、彼らは残念ながら合理主義の力の前で敗北続きだからなあ
常に自分を疑い、自分の理解の範疇を超えるよくわからんものと格闘し続けることでしか、本当の意味で頭は鍛えられんと思う
例えば、ピカソとかマジで意味分からんし、何がすごいのかも分からんけど、それをどうにかしてあらゆる努力で理解しようとするその姿勢が必要
もちろん100%の理解なんてあり得ないから、常に結論は暫定的
それは、とても不安定な台の乗り続けるようなもので、楽ではない
でもそういうことをし続けることでしか、賢くならないと思う
科学の世界だって実益がないことを理由に基礎研究がどれだけ迫害されているか
実益を根拠に芸術の価値を認めないことは、結局は実益がないことを以てあらゆるものが否定されてしまう
一見すると無意味なことから新しい価値が生まれる、なんてことは歴史を見たら一目瞭然なのです
ネット上にはCPUがATOMでHDDを8TBくらい積んでる人をたびたび見かける。
何でも知ってる人をよくウォーキング・ディクショナリーというけどまさしく辞書が歩いてるだけっていうのか。
でもHDDが巨大な人のほうが社会でも評価される。知識量が多いこと自体は良いことだし、なまじCPUがあると自分で考えてしまって組織に疑問を持ってしまうからね。
最先端の科学の分野でも、すごい発明をする人は、単なる合理主義を超える創造性のある人だと思う。もちろん合理的でなければいけないけど、芸術と科学って相反するようであって実はかなり似た部分があると思う。
ピカソの絵なんてまったく理解できないけど、きっとそれは私が凡人の「合理的」な観察眼しか無いからであって、価値のわかる人は「なぜああなるのか」という非凡な合理性にもとづいているはずなんだよね。あれでなければ価値が生まれない必然性というのかな。
常に自分を疑う、…頭の固くなった老人には難しいことだなあ。自分の理解の範疇を超えるものは、どうにかして否定しようとする感情が生まれる。だから、理解できないまでも、否定しないようにしないとな。
いつの時代も似たようなもんだけど老人には若者の行動が理解できない、だから若者を否定したがる。
私は外交や安保で安倍さんを支持してたけど、安倍さんの罪は(目の前の)経済を最優先したためすぐに金にならない基礎研究をおろそかにした部分か。
女系天皇問題はまさに合理主義と伝統との対立の象徴ですよね
合理主義が恐ろしいところは、あらゆる分野で破壊的なパワーを持つところ
それに抵抗するのはかなりの力が必要となってしまう
合理的な説明をされたら人はついつい納得されてしまいますからね
伝統なんてものはそのパワーの前ではもはや破壊の対象でしかない
これに対して抵抗力を持つためという側面からも芸術ってやっぱり重要だなあと思う
例えば女系天皇反対論に関して言えば、よく根拠の一つとして出てくるのはY染色体ですね
女系天皇反対論にY染色体が云々みたいな科学的説明を加えるとなおさら、合理主義の餌食ですよ
染色体なんてただのDNAの集まりでそんなものに価値なんてあるわけない
もしそれが大事ならDNAを採取してきて、冷凍保存して崇めればいいって話になってしまう
日本の伝統ってそんな近代科学ごときで説明できる代物なの?
なら無くてもいいんじゃね?ってなるし、まったく逆効果
伝統って長く続いてるから意味があるんだろなあ。伝統に価値を感じる人から見れば、1200年男系で続いてるのってすごいこと。そしてそういう伝統主義者は、外国の政治家にもいる。宮中晩餐会とかで気分を良くしてもらって、外交がいくらか日本有利になれば…
そういうこと考えると伝統ってすごいよな
私もそこそこの歳なんで、これから生き方を変えろと言われると人生の半分以上が否定されてしまって辛いんですよ。だから自分を肯定してくれる根拠は欲するけど否定するような根拠は見たくない。
老人になればなるほどその傾向が強まって、老害化するんだろうなあ。
女系天皇については、「古代から男系で続いてきたから変えてはならない」だけでは容認論にとっては何の説得力もないわけで。古いからそのままにしろって言うなら原始時代のままで生きなきゃならんだろうがって話になる。
女系天皇容認の人も、みんな日本の伝統文化をどうでもいいと思ってるわけじゃなくて、伝統を守る価値を理解してる人が大勢いると思う。「観光客を呼び込めないなら伝統なんて要らん」という価値観の人とはそもそも話が通じないから、そういう人に訴えても無駄。女系反対は、伝統の価値はわかるけど男系にこだわる理由がわからない、という人に訴えるべきこと。
それが「古いから」だけでは説得にならない。伝統の価値を認める人も、古けりゃなんでもいいわけじゃないだろうから。
Y染色体の話は、私もSiphonとの議論で出したかもしれないけど、それは「男女の違い」ということなんだよね。Siphonは「アマテラスの血を引いてりゃいいじゃないか」という立場だった。「血を引く」という話の時点で、それはDNAの話になる。だから私は単純にDNAがつながってるだけではなくY染色体が受け継がれている、というつもりで言ったと思う。
でも、DNAにしろY染色体にしろ、古代の人間がそんなの知ってたわけじゃないし、「子孫であればいい」か「男系でなければならない」かを別の言葉に言い換えただけのこと。Y染色体は「男系の証拠」であって、染色体そのものに重要性があるわけじゃない。
実は私は、女系天皇には猛反対してるけど、天皇制廃止には、女系天皇ほど強い反対はしてない。もちろん天皇制廃止にも強く反対するけどね。私はあくまで男系天皇にこだわってるけど、もしも女系天皇が即位するならいっそ天皇制をやめたほうがマシだと思ってる。例えるなら、今から巨費を投じて安土城を建て直して、「これは信長が作りました」って言うことにどんな伝統があるのって話に似てるかな。女系天皇ってのは、天皇のレプリカにすぎない。だったらもう要らない。国家運営そのものは共和国でもやっていけるんだから。
原理主義に陥ってはいけないと思うんですよね
一切の変化を許さない、とすれば長くは続かないと思うんですよ
伝統は当然長く続いているから伝統なのであって、その歴史には当然変化はあったはずです
問題はその変化をどの程度まで許容するのかということ
女系天皇の容認は少なくとも現代に生きる我々にとっては許容範囲内に収まる話だと思いますよ?
ただ僕が危惧するのは、これを現代人だけで結論づけていいのかということです
つまり、この変化の許容範囲を判断する主体を我々現代人だけに限定していいのかという問いです
もしそれを認めてしまえば、共和制も天皇制だと言うことすらできてしまう
伝統というのは過去にそれを守ってきた人たちと、未来にこれからそれを守ろうとする人たちをも巻き込む議論なわけです
未来というのは難しくても、少なくとも過去というのは検討の余地があるわけですよね
過去の人たちが何を守ろうとしてきたのか、どこまで変化の許容範囲を認めてきたのか
先例という言葉にすると簡単ですが、そこには間違いなく歴史に生きた人々の判断の連鎖があったはずです
単にこれは古いから良い、続いているから良いというものじゃない(縄文時代の地層とか現代でも残っていますが、そんなものに価値はない)
1000年間守ってきた彼らがいたから続いているのであって、彼らの意志を無下に当然できないわけですよ
彼らの判断を尊重しないということはつまり、現代に生きる我々こそが伝統の価値が分かるんだという極めて傲慢な態度です
そして、間違いなく言えることは、その判断の連鎖の中には、女系天皇の容認は入り込まなかった
それを変えるということは過去1000年伝統を守ってきた彼らを納得させられるほどの理由がないといけません
しかし、残念ながら僕が見てきた女系天皇論の中にはそういう類のものは見たことがないですね
その程度の理由で変化を認めるなら、共和制でいいじゃんと思ってしまうものばかりです
まあでも、女系反対論の界隈ははっきり言って反吐が出るような思想の人たちが多くて辟易としてしまうし、あんなの見たらまともな人はほとんどが女系容認に傾くでしょう
一部の過激な男系固執派と理性的な女系容認派という図式になって、最終的におそらく女系容認へと進んでいくと思う
拙速になりすぎずに過去と未来とに責任が持てる変化になるように祈るしかないですね
伝統っていうのは知的財産のことだと思ってる。
別に何の役に立つわけでもないけど、テキストや映像に残すより実物が見れる状態の方が正確にその情報が伝達できるから天皇制とかがこんなにも長く続いてるんじゃないかと。
裏を返せば、わざわざそんなことをしなくても正確な情報が残せるのなら伝統なんて続ける必要はないわけだ。
私も天皇制がなくても直接何か困ることが起きるわけじゃないが…
情報を残すっていまいちピンとこないけど、データだけなら単なる過去じゃないかな
「過去にこんな物がありましたよ」ってそれを正確に残すことも重要だけどそれじゃどんなに正確でも滅んでしまったもの
現存するとしない、今ここに「有る」と「無い」では全く違うと私は思う
児童クラブで虐待まがいの指導が問題になってて、動画を見たらこれはひどいと思わざるをえない。
ただ昭和時代は小学校に似たような先生がいくらでもいたような気がする。
つまり、当時は同じような場面を見てもひどいことに気づかなかった。
今それを見たらすげーひどいことがわかる。
文化の違いってすごい。
私が小学2年生のころの担任の先生は、体罰をしたのを見たことがなかった。
大きな声を出して子どもを怒鳴りつけた場面も記憶にない。
よく考えてみたらそれって理想的じゃん?
当時は「指導力がない」と他の先生方にさんざんに悪口言われてたが、叩かなくても叱りつけなくてもクラスが荒れることはなく、ちゃんとまとまってて、何の問題も起きなかった。
叩かない怒鳴らないイコール指導力がない、つまりあの時の指導力とは無駄に体罰をし無駄に怒鳴りつけることだったんだ。
>>782
伝統だとか文化だとかっていうのをきちんと言語化して説明できる人誰もいないじゃん。
多分皆深く考えてないのよ。
だって今まで「これは凄いものだ!」っていう幻想がぶち壊れて意味がないことに気づいてしまうもの。
要は現実と向き合おうとしてないだけでしょ。
だからくだらねえなって思ってしまうんよね。
時代がそれを望んだ結果なんだとしたら、滅ぶ時はとっとと滅べばいいんじゃないかな。
俺はむしろその時代でしか手に入れられないものとか体験できないものに意識を向ける方が大事だと思うよ。
いつまでも昔のことに拘って前に進めない人とは気が合わんね。
>>783
体へのしつけは体罰となり一部の昭和生まれは老害と揶揄されるようになったのと同様に、これからは心へのしつけも体罰と呼ばれ一部の平成生まれが老害と呼ばれるようになるんだろうな。
これはあくまで体験談なんだけど、先生によっては口が悪い人という人はいたんだよ。
「死ね」とか「殺すぞ」とか、そこまでのことは言う人いなかったけど「アホ」とか「ボケ」とか、叱る時に言う人は一定数いた。
なんなら指導するときに怒鳴る人もいた。
それが当たり前だったかどうかは分からないけど、叱ってる内容自体は「宿題を忘れるな」とか至極真っ当だったからおかしいとも何とも思わなかった。
だから多分、一部の昭和生まれが体罰は悪くないと考えるのと同様に、一部の平成生まれも悪口くらいどうってことないって考える人はいると思う。
あ、俺はそれに馴れてるってだけでそれが良いとは思ってないけどね。
パワハラや誹謗中傷で精神を病んで、最悪自殺してしまう人がこれだけ注目されてはいるけど、まだまだ「そんな大袈裟なw」という感覚の人は多いと思う。
私は中国史が好きなのでそっちから例を引いてくることが多いんだけど。
中国では支配者が変わるたびに何度も前王朝の文化を破壊してきた。秦の始皇帝は滅ぼした六国の文化を「無かったもの」にして秦の文化だけを残した。また、隋が統一する前にも長い混乱期があったり、唐が滅んだあとや、モンゴル支配の時代にも、過去の文化が否定されてきた。
日本はその間、中国をずっと先進国と認めてきたから、中国からいろいろ学び続けた。そして日本は時代が変化してもそこまで体制が変わらなかったことで、学んだものをずっと蓄積してきた。
結果、中国では、中国の文化を知るためには日本に勉強に行け、という逆転現象がたびたび起きたわけだ。時の権力者によって葬り去られた仏典などの貴重な史料が日本に残っている、と。
近い話では毛沢東の文化大革命がある。社会主義こそ最高の文明で、古いものは無価値だという時代の要請によって、どれほどの文化財が破壊されてきたか。そのことを、今になって中国はひどく後悔してる。そして、中華人民共和国に戦争で敗れた中華民国が、莫大な文化財を台湾に避難させたことが救いとなっている。
一度失ったものは元に戻らない。一時の「時代が望んだ結果」で捨ててしまったものが、次の時代で必要とされ、後悔してきたことを中国は何度も繰り返してる。
これは中国に限らない。中央アジアでも、古い石仏などがイスラム教の過激派に次々と破壊されて問題になってる。破壊する側から見ると、「邪教の偶像」なんて、存在しても無価値どころか害悪でしかない。こうして、人類の至宝が失われてる。
何が残すべき伝統で、何が変えるべき遺物なのか、はっきり区別することは難しい。
相撲の女人禁制で、土俵の上でどこかの市長が挨拶の途中に倒れた時、居合わせた女性看護師が救急救命しようとしたところ、「女性は土俵にのぼらないように」とアナウンスされたことがあった。これには私も呆れたよ。人命がかかってる時に、救命よりも女人禁制の伝統を優先させるなんて馬鹿げてる。
ただ、それは有事のときの緊急処置。平時、土俵の女人禁制が「伝統」なのか「差別」なのかは、議論の余地があると思う。相撲はひとつの神事で、宗教的な背景があるからね。
残すべきものと変えるべきもの。それは、ゼロか100かで決められるものじゃない。ならそれが、20なのか、50なのか、80なのか…は、いろんな人の価値観があって、これも難題。「男系天皇」にどの程度こだわるかも、人それぞれに違う考えを持ってる。私などは非常に保守的な少数派になるだろう。
>時代がそれを望んだ結果なんだとしたら、滅ぶ時はとっとと滅べばいいんじゃないかな。
滅んだあと、それが次の時代で再び求められる例も少なくない。でも滅んだものは戻らない。何かを捨てる時は、一時の流行に惑わされてはいけない。昔の価値観と今の価値観が違うように、今の価値観と未来の価値観も違うんだよ。未来の価値観で現在を見て、「あれは一時の気の迷いだった」と気づくこともある。文化大革命なんてまさに、その時代に望まれて、一時の気の迷いで伝統を破壊し尽くして後悔した好例だと思うよ。
ひろゆきのTwitterより
https://twitter.com/hirox246/status/1380660853251350528?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1380660853251350528%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_c10&ref_url=http%3A%2F%2Fjin115.com%2Farchives%2F52316648.html
>子供を学校に通わせないで、身の回りの出来事を学ぶことで生きる力を云々という頭の悪い親がいますが、身の回り生活からどうやって虚数の概念を学べるのか聞いてみたいです。
...YouTubeでいくらでも教えてる人いるけど???
https://youtube.com/c/%E8%B6%85%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E9%AB%98%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6
とか
https://youtube.com/c/toaruotokohaichi
とか
別に不登校を肯定するわけじゃないんだけど「学校でやることって家でだってできるじゃん!だから行~かない!」って言ってる人に勉強の話しても、それ自体がそもそも独学で十分なんだってことが何で分からないんだろう?
学校に行かないと学べない得られないことがあるのは確かなんだけど、その中に勉強が含まれてると思ってる人って多分自力で勉強したことないんだよな。
学校の授業って複数の生徒を一気に相手するとかで基本先生が勉強のペースを作るわけだから、拾得が遅い人には合わないし、勉強できてもっと先々進みたい人にも合わないしで、少なくとも勉学という側面で見れば不登校の方が圧倒的にコスパいいんだよね。
>登校が嫌なら通信制の中学校で教育を受けることは可能。
子供に教育を受けさせる義務を放棄してる親には罰則が必要だと思います。
教育の機会を捨てるのを是とする考えを広めるのは社会的に良くないしアホの再生産になります。
子供は被害者なので責めるべきではないです。
子供を学校に通わせないで、身の回りの出来事を学ぶことで生きる力を云々という頭の悪い親がいますが、身の回り生活からどうやって虚数の概念を学べるのか聞いてみたいです。
「虚数なんて知る必要がない」と考える人は知識が足りないし、子供の成長に制限をかけてることに気づかないならアホでしょ。
引用おわり
なんだろう、ゆたぼん君は机の上の勉強を軽視してる傾向があるんだよね。で、ひろゆきはそれを言ってるわけ。
「身の回りのこと」はホリエモンと会話したり、せいぜい博物館行ったりすることを指してる。
法律的には、教育を受けさせる義務があるから、親が子どもを学校に通わせないことは「教育ネグレクト」になる。子どもが不登校の場合は、子どもが責められるわけじゃないから仕方がないものの、親は子どもが学校に行けるようになるよう努力して、子どもに過度の負担にならない範囲で、登校を促す必要がある。
某YouTuberの場合は、子ども自身がそういう考えを持つことや意見表明をすることは悪くないけど、親が学校に通わせる気がないようなので、教育ネグレクトに該当する。
そういうルール上の問題とは別に、学校に通う必要があるのか、という問題は一般論として考える余地がある。
まず勉強に関しては、家庭学習や塾で、授業レベルを習得することは可能。体育や音楽などの実技も、やろうとすれば出来ないことはない。集団生活や社会生活の経験も、学校以外の集団で経験させることが可能だと思う。つまり、法律論を別にすれば、学校に通わなくても、学校に代わる環境を家庭が用意して子どもに学習・経験させることは可能と思う。
ただしここで区別しなければならないのは、「やれば出来る」と「やっている」の違い。可能だけれどそれが実行されている保証がない。
勉強については、学習の進捗状況は、テストを受けるなどで確認する手段もある。ただしテストで測定できないような内容については全てを確認できるわけじゃない。
たとえば、朝鮮学校のように、文科省で「各種学校」に分類されているものは、数学などはちゃんとした授業を受けているのだろうけど、日本で学校教育と認められないような思想教育が行われているからだろう。日本で小学校や中学校と認めることのできる教育内容を満たしていることが保証されないかぎりは、学校教育の代替えを果たしていると認めることはできない。
某YouTuberの場合はどうか知らないけど、親の方針で学校に通わせない家庭というのは、学校教育の内容に不満があるから登校させないケースが少なからずある。学校教育に不満があるのだから、学校教育と等価といえる教育環境が用意されていることは少ない。また特に、親が特定の宗教や思想を持っていて、学校教育が「神の教えに背く」とか「隠された真実を隠蔽し国家に都合のいい人間を作ろうとしている」というような場合がある。
あくまで、ここで話題になっているYouTuberの家がそうだと言ってるんじゃないよ。
一般論として、学校教育を否定したり、不登校ではなくて親の方針で強硬に学校に通わせないものには「学校を否定するそれなりの理由」があって、思想面が理由になっていることがしばしばある、ということ。
そして、そんなことはなくてちゃんと学校教育の代替え機能を家庭が果たしている、という保証がない。そうである以上、行政としては「教育ネグレクト」または「教育ネグレクト疑い」と判断せざるをえない。
学校は、実態にはいろいろ問題があるけど、理念としては子どものために教育を行う。実行するのは自治体(公立学校)だったり民間(私立学校)だったりするけど、最終的な責任は国にある。国の責任において、国民である子どもを教育しているのに、「親に任せてあるから一体何がどう教育されているのか国も自治体も誰にも把握できません」というのは国の責任放棄になる。
「子どもの意志」はもちろん尊重されるべき。でも、たとえば、親にひどい虐待を受けていても「このままでいい」という子どもも多い。それは親にそのように仕込まれているからであって、子どものその時点での意志には違いないけれども、親の意志を強制的にたたき込まれただけのもの。
極端な話、「子どもが、悪いのは自分だから親に殺されてもかまいませんと答えたので、虐待死するまで児童相談所は保護しませんでした。子どもの意志を尊重しただけです」というのが認められるわけじゃない。子どもの意志はオールマイティーじゃない。
学校でなくても学校の代わりは可能。でも、代わりが実行されている保証が得られない以上、教育ネグレクト疑いに該当する。
某YouTuberの場合も、ルール的には教育ネグレクトで、内容的にも教育ネグレクトが強く疑われる案件。
ただ、ネグレクトなのか不登校なのかグレーな部分もあるので、強制的な措置には出られないのかな。
「親は子どもが学校に行けるようになるよう努力して、子どもに過度の負担にならない範囲で、登校を促す必要がある。」←これの法律論としてのソースってネットで見つかる?条文とか判例とか
なんかNHKとかのサイトで「本人が行きたい時は行かせる義務がある」みたいな記述に留まってるんだけど。
ネグレクト疑いには同意できる。
ただ、一つだけ違うのが、「推定無罪」だし、例えば、自治体の職員が、「ちゃんと学習指導要領に従って自宅学習してますか〜?」って形だけの確認を一応する、みたいな形でも一応、国は責任果たしてることにならない?
道徳とか世論はともかく、法律論としてさ。
youtubeとか著作権違反の動画上がりまくってるけど、「通報されてから削除」で別に成り立ってるしさ。
条文や判例は知らないけど、そういう程度で運用されてる。
義務教育というのは親が子どもに教育を受けさせる義務だよね。
「親は子どもが学校に行けるようになるよう努力」←努力してなければ義務教育の親の責務を果たしていない
「子どもに過度の負担にならない範囲で」←登校刺激が過度の負担になれば逆に心理的虐待になる
「登校を促す必要がある」←最初と同じ。促さずに放置は「義務」教育を果たしていない
不登校は仕方がないけど、本人が行きたくない時はそのままでいいと言うなら学校の先生だって家庭訪問やらする必要がなくなってどれほど楽だか。
私が語尾を「必要がある」と書いたのは、義務があると言えるほど明確な根拠規定を私は知らずに、あくまで運用レベルでしか認識していないから。
「行きたい時は行かせる義務がある」のは、間違いない。じゃあ行きたくない時は?
「学校に行かない自由」というのは、子ども視点の話でたしかに議論されてる。というのは、もしも「学校に行かない自由」が無いのであれば、義務教育は「子どもが学校に行く義務」になってしまう。
子どもを主語にした場合、「行かない自由」を否定することはできないだろう。ただし親を主語にした場合、「教育を受けさせる義務」が明確にあるから、受けやすい環境を整える義務がある。「促す」が「無理強い」になると困るけど、促しすらしなくなれば、「受けさせる義務」を果たしているとは言えない。
それは、義務を果たしていない親を処罰するということではなくて、子どもが教育を受ける権利を保障するという意味。世論はともかく法律論では、親を悪者にするためのルールじゃない。
もしかしたら文科省の局長通知レベルで取り扱いが書いてあるかもしれないけど、正直私はそこまで把握してない。ただ、実態としては私の言ったくらいで運用されてると思う。たまに、私の感覚ではやりすぎだと思うような強制登校レベルの事例も耳にするけど。
推定無罪ってのは犯罪の確証がないうちは犯罪をやっていないものとして扱う、ということだろう。
たとえば傷害罪について、AがBを傷つけたということが立証されない限り、Aは犯人としての扱いを受けない。
でも、親が子どもを虐待している可能性がある場合は、親を虐待者として扱うことはできないが、虐待の有無をしっかり確認し、子どもの権利を守る義務を自治体は持っている。親に「あなたは子どもを虐待してませんか?」と聞いて親が「してませんよ」と答えたら責任果たしたことに…ならないのは、幾多の事件で証明されてる。
著作権違反に関する法律の運用状況はまったく無関係。合法であるか違法であるかの判断で、違法とされたときに具体的にどう法律を「運用」するかはその法律による。道路交通法違反で法定速度を1キロオーバーしても警察に捕まらないが、麻薬取締法違反では麻薬を1ミリグラムでも持ってたら捕まる。
現実問題として、不登校をずっと続けた人はそれが長く続けば続くほど、社会復帰に苦労するからどちらが良いかなんて言わずもがなではある
不登校って一言に言っても理由次第よなあ
例えばいじめが原因の場合と、単に面倒だから行きたくない場合とでは諸々変わってくる
>>793
「運用」については言葉の使い方の問題もあって、なんか、ややこしいな(頭弱民)
俺はゆたぼん君がこれだけ話題になってて、その親が捕まってない以上、運用上、黙認状態だと思ってるんだけど、南雲は家庭訪問とか考えると、そうじゃないって言ってるんだと思う。
あと殴ったり、ご飯を与えない、虐待のケースと、割と行政が踏み込みにくくて、ほぼ黙認状態の就学問題ではそれこそ、「法律の運用」で違いがあると思うんだけど。南雲が著作権法とは違いがあるって言ってるみたいに。
>>794-795
一般論としてはそう。正直ゆたぼん君のケースは登校した方がいい可能性が高い。ただ、小中学生なんて人によっては感情の言語化がド下手だし、ストレス解消もド下手だから、ちょっとした命令、上下関係(社会常識では問題ない範囲)でも、うつ病になるケースってのは考えられるわけじゃん。そういう場合でも「実際にうつ病になるまでは登校するべき」ってのは杓子定規だと思うんだよね。そんなの兆候で早め早めに対処しろよっていう。さっき感情の言語化がド下手なことあるって言ったけど、メンタルの病気ってじわじわなっていくことも多いみたいだから、(トラウマなど瞬時のケースもある)、本人すら、なぜうつ病になったか、わからない(命令や上下関係が原因だとわからない)ってことも考えられるじゃん。かなりこじれると思うんだよね。
運用というのは、個別具体的な問題に関して法令をどう適用していくか、警察なり役所なりの執行機関が裁量するっていうことかな。
たとえば軽犯罪法に該当することで、罰則規定があったとしても、実際にごく軽微な内容だと判断すれば警察は注意だけで終わらせることもある。杓子定規にならないように状況によって柔軟に使うという感じ。
虐待で親が捕まることはむしろ少ない。親を捕まえることが、被害者である子どもにとってプラスなのかマイナスなのかにもよる。身体的虐待で体にアザができたら、傷害罪にあたるけど、親が逮捕されるのはよほど重篤な場合であって、警察も立件しないことが多い。
ネグレクトの場合も、食事を与えないなど極めて悪質な場合は保護責任者遺棄などに問われる場合もあるけど、子どもを学校に通わせないだけで健康上の被害が生じない場合は、学校や市役所、場合によっては児童相談所が親を説得するのがせいぜいだと思う。
仮に一時保護をしたとしても、このケースではそこから先の見通しが立たない。子ども自身が学校に行くことを拒否していて、別に親が閉じ込めてる訳じゃないから、気長に説得する以外に方法がないだろう。親の意向に反して施設入所させるような強硬手段は、家裁に認められるとは思えないし。
生命の危険などは無いけど長期的な教育ネグレクトで、しかも全国的に有名になったナイーブなケースだから、要保護児童対策地域協議会の対象になってるかもしれない。
実情は知らないけど「黙認」されてはいないと思う。説得以外の方法がなくて、親子とも説得に応じない状態が延々と続いてるんじゃないかな。もしも黙認するのなら、黙認する理由(心理的な問題などで、登校刺激を与えることが望ましくないという判断)があるはず。
登校を促すと言っても実際には促し方の方法とか強弱がいろいろあるはず。文科省の原則は学校に通うこと。ただし無理やり通わせることでかえって状況を悪くしそうなケースは、個別対応することになる。個別対応は、子どもや家庭の状況が一人一人違うのだから、現場責任者である校長の判断で、ケースバイケースだろう。
早め早めに対処しろって言うけど、どんな対処をしろって言いたいの。学校に来なくていいよ、って放置することが対処? …まあそういう場合もあり得る。実際にあるのは、学校に行って校門に入ってからすぐに帰る(遅刻早退でも出席扱いにする)、1時間だけ保健室で保健の先生と面接して帰る、等々。あるいは、学校がどうしても無理ならフリースクールに通って、それを出席扱いにするなど。
全く家の中にいる状態でも仕方がない(ゼロ)から完全出席(100)までの中間にはいろんな選択肢があるから、個別ケースごとに、子どものメンタル面などを見ながら調整する。
…というのが理想論なんだけど、実際には親の許可を得て泣き叫ぶ子どもを無理やり学校に引きずってくる校長もいたりして、それがトラウマになってよけい状態が悪化するとか、適切に対処できてるとは思えないこともある。
校長の中には、平成をすっとばして昭和から令和にタイムスリップしたような「不登校は怠けだ、いじめに負けるな立ち向かえ」主義の星一徹みたいなオヤジが少数ながら生き残ってるからな…。
黙認ってのは言い過ぎかな
ただ、実行性ないよねっていう
早め早めの対応ってのは、教師側じゃなくて、親が「なんで嫌な気持ちになってるの?」って聴いたりして、総合的に行くのと行かないのとどっちがいいか話し合ったりすることを想定してる。教師側にそれやらせるのは色々と無理あると思う。彼らも労働者だし。
フリースクールなり保健室登校なり、中間的な選択肢は確かに有効な場合があるね。
まあ、世の中の親も、出来た親ばかりじゃないし、現状の仕組みは危険性伴ってるっていうのはわかる。ただ、日本国民はそういう道を選んだわけだし…
「親、本人、自治体」の賢さや良心はケースによって千差万別だから、一概には言えないけど、もし親が先を見通せる人物なら、親のやり方でやるのが一番いいよね。で、グレーな不登校だろうと子どもの人生を守るためならやるのが親心だよね。
そう考えると、ああいうグレーな不登校が振り返れば、一番賢明な選択だったってケースもありうるわけだし。
教育って結果論じゃん。だからああいうやり方を完全否定できないんだよね。
800(あと2週間あまりの期限で残り200…)
実効性がないと言われると、なかなか結果を出すことは難しい…。
学校に行かないことでも、その他の何かでも、原因や理由があるわけだから、それを変えるっていうのは非常に難しい。仮にいじめとかが原因になっていたら、転校すれば環境は変えられる。でも本人の中のトラウマは、医者の治療を受けてもなかなか処理できない。
このケースの場合は、説得しか方法がなくてそれに耳を貸さない状況じゃないかと推測する。ある意味、耳を貸しさえすれば解決できるかもしれないから、「人の意志でどうにかなるもの」であるぶんマシなのかもしれない。一方で、本人が有名になりすぎたせいで、学校に通うようになればいじめられる危険が高く、それは日本全国だから引っ越しにも効果がなく、非常に困難な状態に陥っているのかもしれない。
うん、そういう意味なら「早い対応」が欲しいね。かなり親が賢くないといけないけど…。賢い親が、子どもの様子を見て総合的に「学校に行かないほうがいい」と判断したとして、じゃあ学校に行かずにどうするのかって問題になる。
一般論として、心理的な問題で一般の学校に通うことが適切でない場合には、情緒障害児の特別支援学級、あるいは特別支援学校がある。普通に考えると、素人の親がいろいろ手を尽くすよりも情緒障害児の特別支援学校の専門性の高いスタッフに任せたほうがいい。
ただ、医者にも「ヤブ医者」がいるように、どんな資格や免許や肩書きを持ってる人間にも「ダメだこりゃ」という人がいるから、情緒障害児向けの特支だからみんなOKとは言えないかもしれない。また、たぶんそういうところに入るにはかなり重症化してないと認められないだろうから、「早めの対応」、「先手を打つ」みたいな目的では使えないだろうな。
学校というのは私の感覚ではどうも不登校に理解がない。まあ、親が虐待してて、発覚を恐れて偽装不登校を子どもに強いてることもあるから、そうでないかどうか、とにかく学校に来てもらって子どもを観察しようという意図があるかもしれない。でも、もちろんそうじゃないケースも多々あって、学校の環境が悪いから親の判断で「行かないほうがいい」ということもある。そんな時、親が学校と連絡を絶ってしまえばますます虐待を疑われるし、学校の理解を得ようと連絡を密にとれば「とにかく学校に来い」「家庭訪問でお子さんの様子を」と、どっちにしても干渉を受ける。
親の判断のほうが適切な場合ももちろんある。そんな賢明な親にとっては、学校や行政の干渉は迷惑で、子どもにとってマイナスになることもあると思う。でも、どっちが正しいのか公平に判断する神様みたいなものがない以上、学校や行政は教育ネグレクトや、もっとひどい虐待の隠蔽を疑わざるを得ないわけで。
結果論でベストな方法なんて誰にも分からない。でも、リスクという面では、公的機関が子どもの状況を確認できない状態は非常にハイリスクだから「よりローリスクな方法」として、学校や行政が関わろうとするんだよね。
もうひとつ、学校や行政は、不干渉で子どもに悪影響が及んだときは激しく社会的責任を追及されるが、過干渉で悪影響を招いたときにはそうでもない。つまり自己保身のために過干渉傾向になる。校長だって市役所の課長だって、守るべき奥さんや子どもがいるだろうから自分が悪人として知れ渡ったら困る。不干渉で悪い結果を招いたら、とたんにマスコミに吊し上げられるから、自己保身的になることを一概に責めるわけにもいかない。
私はよくマスコミの悪口を書くけど、マスコミだって売れてナンボの商売だから、売れる記事を書かなきゃいけないんだよね。
正しく「こっちの人にはこういう状況があって…」と分析して結局「みんなそれぞれ努力したが事件を防げなかった。どうしよう困ったな」で終わっちゃう記事なんて売れなくて、「こいつが悪い!悪の根源を一掃しろ!立ち上がれ国民よ!」のほうが売れるから、悪人作り、スケープゴート探しになる。
マスコミはマスコミ業界の中で自然淘汰を受けるから、仮に公平で良心的なマスコミがあっても生き残れない。大衆はストレスのぶつけどころ、攻撃対象を求めるから。
だからマスコミが悪いと言うわけにもいかないんだよなあ。彼らだって食っていかなきゃいけないから。結局、国民全体の教養をアップしなけりゃいけないんだけどこれが難しい。