いつだかやけになってハルシオン1st飲んだとき、かなり幸せな気分になれてうわっと思った
幸福ってマジで外在的な因果と関係なく、人為的に再現可能なんやなってなった
病名の鑑別がどこに落ち着こうが世間的にはただの厄介者だからどうでもいい
DSM5の妥当性とかの議論も専門家同士で勝手にやってくれって感じ
大陸哲学全般にただよってる、とっつきにくすぎて誰も批判したがらない雰囲気いいな
ぼくもそのぐらいふわっと生きたい
10年前の自分に「今、わいはド深夜にyoutubeで知らん女が餅食ってる音声を聴きながら大学のレポート書いてるよ」と教えてあげたい
[日記]
ものを知らないなりに、適者生存と人権の二律背反についてかんがえようとする
政治であれ存在論であれ、保存より変化を重んじるタイプの言説をすると
それを説いている奴自身が生物としての自己保存の本能にしたがってるじゃんか、という批判を免れないので
その点でニック・ランドとかメイヤスーとかは本当にそれを克服できてるのか? ってなるな
レイ・ブラシエの「人類が絶滅した後、「私」の知らない世界が到来する」みたいな話も結局「私」ありきだしなー
現代の「精神分析」って統合失調症とかASDの症状にかこつけて政治経済を語る、「それっぽさ」を追求した疑似社会理論であって臨床の場のものではないのに
書店にはセラピー的な扱いで心理学とかの棚に置いてあるの、わりとやばがち
あと心理学科のメンヘラはラカンに詳しがち
精神分析は現代でも臨床の場で生きてるよ。
どっちかというと治療よりも診断のほうがメインだけど。
あと精神分析も心理学の一領域だから心理学の棚にあるのが普通だと思う。
私の若い頃はオカルトの棚に置かれてあったりしてヒドイ扱いだった。
私の知ってる範囲だと普通、性別で分析方法変えたりしないけどな。
フロイトそのものの元祖精神分析だと性別で違ったりする部分もあったけど今は使わないと思うな。
精神分析と言っても元祖のフロイトだけを使うことはあんまりない。
たとえば現代ラカン派の理論とか使って、患者に「男の神経症は去勢不安、女の神経症はペニス羨望が原因です」とか説明したらフェミのひと激怒すると思うで……(精神分析における「ファルス」はあくまで欲望のたとえやろけど)
フロイトのリビドー論が発達心理学とかの研究と地続きなのはわかるけど、
「無意識」の言及が観念的すぎてオカルトとかスピリチュアリズムの思想に援用されまくってるから、わいはもうオカルト棚でええかな……っておもう
現代ラカン派はもう社会的な去勢が存在しない前提で享楽論とかやってるんだっけ?
どっちにしても、人の欲望の由来に性差があるって主張はフロイトから現代ラカン派まで一貫してるはず
去勢不安だとかペニス羨望だとか、フロイトの「性」へのこだわり的なものは使われないなぁ多分。
でも無意識とか抑圧とかを考慮しないと解離性障害とか多重人格はうまく理解できないと思う。
それは臨床心理で外せない。
精神分析的なものは、真実かどうかの保証はどこにもなくて、現象をどう解釈すれば有効な解決法が見つかるかって問題じゃん?
だから人によって解釈のやり方に差があると思う。
でも結局、有効な解決法さえ見出せれば、極論すれば解釈が正しくなくてもいいのが精神分析だからね。
ケアの現場でヒーリングとかスピリチュアリズムをつかって、それで当事者が楽になるのはいいことだけど
人によってやり方が異なるものを理論のように体系づけて心理学の棚に売ってたら、かえって当事者を困惑させる一方じゃないかとも思うんよな
「診断」って言ったのが正しい意味だったかどうか、要するにその人はどういう心理状態にあるかを解釈することをそう呼んだ。だから病名や障害名をつけるだけが目的じゃない。
「診断」という言葉は不適切だったかもね。「判定」と言ったほうがよかったか。
私としては、病名や障害名にこだわりたくない。なぜかというと、百人いたら百種類の心理状態があるのに、診断名という枠にはめてしまうと、その枠で相手を見てしまうリスクがあるから。
病名や障害名は、その人の状態を理解するためのものであって、うまく利用すべきツールみたいに私は思ってる。
それを言えば病原体も見つからないのに人間の心理診断になんの保証があるんでせう。
たとえて言えば検査方法の無かった時代のインフルエンザ診断と同じで、症状から診断してるだけのこと。急な高熱とか関節痛とかね。
漢方医学だって最近では徐々に解明されてきたけど、それ以前はツボがどうたらみたいな話は大した根拠を示せない経験則だったよね。
ただ精神分析は根拠の無さがちょっと際立ってるけど、現実にそれで治せる解釈や方法を経験で蓄積していってるものだから、オカルトじゃない。でなきゃ精神科の医者もオカルト使ってることになるよ。
ただしセラピストの最大の商売がたきは宗教と昔から言われていて、オカルトとの境界線が曖昧なのも否定できんけどね。
「精神分析が今後臨床で活用されるべきか否か」の話か
それは精神分析家を名乗る人たちで好きにやってもろて……って感じかな
でも近年、精神分析が何らかの影響力を伴う規模で精神疾患の緩和の役に立ってるってデータはみたことないで
斎藤環とか「精神分析は心理的な分析には使えない!」つってオープンダイアローグの研究に行っちゃったし
「精神分析の理論は臨床の場とは事情が異なる」だっけ
でも斎藤環の、サブカルチャーをラカンの理論で読解するみたいな本はおもろかった思い出がある
「使う」って、診断法としても療法としても使わないならどう「使っ」てるんや
臨床における「判定」が何を指してるのかわからん
だから、その人の心理がどういう状態にあるかを推測して、問題点を解決するための方針を立てるために使うんよ。それは別に病気や障害としての診断結果が「なし」でも、問題があればやる。
わいは心を単なる脳の創発現象だと思ってるから
非物質的な何か(言葉、態度、行動傾向とか)に還元するタイプの心理学はどっかで定義上の誤謬が起きてる気がするんよな
でもyoutubeに上がってるロリのささやき睡眠導入ASMRは心に効くから不思議よな
ねる
「心」というのは「現象」で、その発生源は脳とかなんとか物質的なものであっても現象そのものは非物質的なものやないの。
理論に未完成な部分があっても、実際に使えるなら、大学が学問として認めたり、厚労省が医療として認めたりしていい気がする。
精神分析とは何かっていうところの見解が二人で多分違うから、うまく話がかみ合ってない感じがするなあ
めちゃくちゃ余談なんだけど、心理学やら医学みたいな人間を対象とする学問は、1つ共通項があって、それは「正常性」という概念とは切り離せないこと
「正常な人間」というのが出発点にあって、正常から逸脱した状態を病として定義している
ただ、肝心の「正常な人間」とは何かっていうのが純粋に科学やっているのかと言われると難しい
というもの、正常性ってその時代や社会の規範的内容を多大にして含んでしまうから
精神疾患なんてのはまさにその分かりやすい例だと思う
一見すると個人にフォーカスを当てているようなんだけど、実は社会規範的な正常性が背景にあってその縛りからは抜け出せないんだよね
それが良いか悪いかは横に置いて、肝心の医者がそれを分からずに、我こそが科学者だみたいな面してるのが何ともね
しかも専門性が上がれば上がるほど、自分の専門領域に執着してしまうから、大学教授みたいな専門家連中ほど絶対にそれを認めない(彼らの専門的知識や能力は敬服しますが)
本当は社会規範の奴隷に過ぎないのに、自分らこそが健康の番人であり、社会を引っ張っていると勘違いしちゃう
だから専門家が集まるとDSM5がどうだこうだみたいなしょーもない議論になるんだよね
わいが想定してる精神分析っていうのは、フロイトの提唱した「エディプスコンプレックス」や「去勢」みたいな諸概念の実証を目指す、いくらか体系化された思想としての精神分析のことなんやけど、
南雲が言ってるのはもっとひろーい意味で、認知療法とか行動療法とか、「薬物療法のオルタナティブとしての心理学全般」のことを言ってるんかな
わいが患者としてここ5,6年間廻った医療機関では
心療内科の医師は処方薬が効いてるかどうか以上のことを聞かないし(心理療法は保険適用外なので専門機関を使う人はほぼいないし、大金はたいて催眠療法とか受けてるのはちょっとスピってる人)
大学常勤の臨床心理士は学内のサービスを紹介するだけの、半ばペッパーくん的な置物の役割を請け負ってるから
南雲がいってる「臨床の場」ってのは、もしやおとぎの国の世界なんでは……と思う
別に社会規範を変える必要はないと思うけど、医学の目的が患者の幸福ではなく患者を正常性の中に押し込めることになっちゃってるのってどうなのって思うよね
それで皆がハッピーならいいんだけど、患者はそれでは不幸なままだし、医者は医者で患者は解放されると本気で思っているからタチ悪い
そりゃいくら頑張っても精神病患者は減りませんわっていう
構造的に欠陥抱えてるんだもん
真面目な精神科医ほどこの矛盾に頭悩ませて結果自分が鬱になるっていうね
そのあたりをうまく利用して製薬会社は儲けていて、結局得しているのって彼らだけじゃんっていう闇が垣間見えるわけです
薬使えば幸せって普通に考えてやべーでしょ!!
薬のすべてを否定するつもりはないけど、やってることは麻薬と変わらんし、一時の退廃的な快楽に過ぎんからなあ
新型うつとかマジで闇オブ闇だと思うわ
>>138
精神分析と認知行動療法って、心理療法としては対極にあるもんだよ。めっちゃ単純化すれば精神分析はフロイトの応用でしょ。行動療法はワトソンの応用。「心理学」と一括りにしていいかどうか分からんくらいに別々の思想に基づいてるから、お互いに「あんなの心理学じゃない」みたいな喧嘩になる。薬物療法は対極と言うより根本的に別の分野。
今は認知行動療法のほうが幅を利かせてるけど私はそっちは嫌いだって言ってるんだが。
私の言ってる広義の精神分析は、投影法とか、日常生活の行動や会話(これも特別に意図的なものでなければ投影法と質が近い)から心理状態を解釈していく方法一般のこと。
>>140
結局、薬物だのなんだの使って無理やり社会適応させようとするのが闇なんだよ。
社会はいつの時代も少なからず歪んだものだから、その枠に押し込めたらそりゃ病むし、薬で脳内ホルモンをどうにかしてかりそめの適応を得ることができても薬をやめたら元の木阿弥。だからいったん飲み始めた薬はやめられなくて、製薬会社の儲けが安定的になる。
私は発想自体が古いのかもしれないけど、社会適応と自己適応という軸で考える。
社会不適応でも人間生きづらいけど社会適応を優先させるあまりに自己不適応を強いてるのが現代の主流なわけだ。
そうじゃなくて私はいくらかの社会不適応を許容しつつ自己適応にもっていくことに主眼を置いてる。
社会不適応で自己適応してる究極の状態は仙人とか隠者みたいになってしまうんだけど、それは行き過ぎだとしても、方向性としてはそっちを向いてるわけ。でなきゃ人間幸せにはなれんよ。
>>140
さっき正常/異常の境界線が時代によって変わる相対的なものだって言ってたけど
薬物によって患者が一時の退廃的快楽を得ることが異常だっていう社会規範もまた相対的で、これからの時代では正常と見なされうるんじゃない?
じぇいそんは「正しさなんて時代による」といいながら、他方で「薬物への放蕩だけは絶対に間違いだ!」とか「製薬会社ばかりが設けるのは絶対間違ってる!」っていうけどこれは矛盾している
メタ倫理学における普遍主義者がよくやる典型的な批判パターンで、「相対主義のパラドックス」っていうねんけど、道徳的相対主義者は「すべての規範は相対的だが自分の主張だけは不変的だ」と主張せざるを得ないんよな
矛盾した倫理を説くくらいだったらまだ、「精神疾患に関する普遍的な基準」を信じ、考えようとしてるお堅い学者連中のほうがまだメンタルヘルスに対して誠実な姿勢を見せているということもできよう
わいはどこに話を着地させたいんですか?(自問自答)
>>143
幸/不幸と正常/異常がごっちゃになってる気がする
余談のつもりでテキトーに書いただけだから分かりにくかったかも
めちゃくちゃ分かりやすくいうと、医学は「正常な人間こそが幸せである」という暗黙の前提がある
けど実際はそうじゃなくね?って言いたいわけ
+アルファとして、その暗黙の前提を包み隠さず医学が明かしているならまだ誠実だけど、そうじゃないからタチ悪いなって思う
これは精神医学に限らずだけど、「あなたという個人の幸せのために医療を施しているのです」、って医学は謳っている
個人にフォーカスを当てているつもりになっているんだけど、本当にフォーカスが当たっているのはどうやって正常に戻そうかっていうことだけじゃないかってことすよ
つまり、病院の役割は構造的に刑務所とほとんど変わらんなって思う
患者を健常者として社会に戻してあげるのが病院で、犯罪者を真っ当な人間にして社会に戻してあげるのが刑務所
犯罪者ほどではないけど、病人って悪と見なされること多いでしょ?(お前の健康管理がなっていないとかいう意味不明な理屈で)
感染症とかだと露骨に分かりやすいよね、感染者は社会に害をもたらす極悪人と見なされる
今回のコロナなんてまさにそう
この構造で皆がハッピーなら別にいいけど、不幸な人を生産しまくってるんじゃないのって言いたいわけ
あと別に正常という概念の相対性にフォーカスあてているわけではないよ(もしそうだとしたら刑務所も否定しないといけなくなる)
単に医学における正常な人間像に科学的真理なんてものはなくて社会規範に縛られている過ぎないってことが言いたいだけで、今ここに生きる人にとってはそれが全てでしょう
薬物依存患者が正常か異常かは置いといて、僕は大多数は不幸じゃないの?って思うけど・・・
一時的には薬で救われているのは間違いないし、薬の役割を全否定はしないよ
けどそれって本質的に人間に幸せをもたらすのかっていうのが疑問なだけ
別にそれで本人が幸せだって思うならそれでいいじゃんっていう考えは否定しないけど、医者はその個人の幸せに向き合ってないなって思う
だから医者は責められるの、「患者が不幸なままだぞ」とか「お前ら医者は何もしてくれねーやん」とかね
でも本当は医者が悪いわけじゃなくて、この矛盾した医学構造のせいなんだよね
患者がどうなろうがどうでもいいと思っている医者にとってはむしろ思考停止で医療行為ができる楽な構造なんだけど、真面目な医者は苦しんでいる(ちなみに大多数の医者は当然前者)
この構造で得するのは製薬会社だけで、医者も患者も不幸になっちゃうなあって思う
いやもちろん製薬会社の利益こそが正義だって言うならそれでもいいけど、なら医療界はそれを社会に表立って言うべき
そんなことは非倫理的だという意識があるからそれを隠しているわけよ
製薬会社だけが得してるって聞いたら、それこそ今の社会規範で多くの人はそれはおかしいという価値観を共有するはず
自分は基本的に人間は幸せなほうがいいと思っているし、医学の役割は刑務所ではなく、人を幸せなことにすることにあるとも思っている
この価値観を別に他人に押し付けるつもりはないけど、敬虔な医学徒としてはこの大きな構造に巻き込まれることなく少数派としてゲリラ戦を展開したいなって思うんすよね
>>142
その社会がそれこそ昭和みたいにかっちりした規範があったらまだマシなんだけど、今はそれが個人の自由だの多様性だの何だのと叫ばれて揺れ動いちゃっているから余計に難しいすね
社会は多様性を是としながら一方で、異常を排除するという本能的側面も持ち合わせていて、ダブスタに陥っているなって思う
医学には個人の幸福を是としながら正常性に縛られているという構造があって、さらにその正常性を規定する社会の側にもまた別のダブスタがあってもう複雑怪奇ナリって感じ
これならまだ分かりやすい社会規範が存在した昭和のほうが不幸な人は少なかったとすら思うね(エビデンスはないけど昔の方が自殺者少ないし)
ちなみに刑務所と病院との対比はフーコーの受け売りで、実際に昔は本当に病院は刑務所とまったく同じ役割だった(というか区別なくて、どちらも同じ監獄)
例えば、癩病患者と猟奇犯罪者を同じ施設に収容していた時期も普通にあったみたい
医学も「医学哲学」に根ざしてるから理論や技術だけでなく抽象的な思索も役に立ちそう。患者のためには。
一方で、患者の幸不幸なんてしらねーよ病院も医者も市場原理よ!みたいなタイプのほうが苦労しなさそう。
歴史を学んでよりよい未来を創ろうみたいなスタンス、前向きすぎてくらくらする
もうそういう人文的な良心はわいにはないんや……