原理主義に陥ってはいけないと思うんですよね
一切の変化を許さない、とすれば長くは続かないと思うんですよ
伝統は当然長く続いているから伝統なのであって、その歴史には当然変化はあったはずです
問題はその変化をどの程度まで許容するのかということ
女系天皇の容認は少なくとも現代に生きる我々にとっては許容範囲内に収まる話だと思いますよ?
ただ僕が危惧するのは、これを現代人だけで結論づけていいのかということです
つまり、この変化の許容範囲を判断する主体を我々現代人だけに限定していいのかという問いです
もしそれを認めてしまえば、共和制も天皇制だと言うことすらできてしまう
伝統というのは過去にそれを守ってきた人たちと、未来にこれからそれを守ろうとする人たちをも巻き込む議論なわけです
未来というのは難しくても、少なくとも過去というのは検討の余地があるわけですよね
過去の人たちが何を守ろうとしてきたのか、どこまで変化の許容範囲を認めてきたのか
先例という言葉にすると簡単ですが、そこには間違いなく歴史に生きた人々の判断の連鎖があったはずです
単にこれは古いから良い、続いているから良いというものじゃない(縄文時代の地層とか現代でも残っていますが、そんなものに価値はない)
1000年間守ってきた彼らがいたから続いているのであって、彼らの意志を無下に当然できないわけですよ
彼らの判断を尊重しないということはつまり、現代に生きる我々こそが伝統の価値が分かるんだという極めて傲慢な態度です
そして、間違いなく言えることは、その判断の連鎖の中には、女系天皇の容認は入り込まなかった
それを変えるということは過去1000年伝統を守ってきた彼らを納得させられるほどの理由がないといけません
しかし、残念ながら僕が見てきた女系天皇論の中にはそういう類のものは見たことがないですね
その程度の理由で変化を認めるなら、共和制でいいじゃんと思ってしまうものばかりです