最近の幼児教育の考え方をネットで見ててすっごく思うんだけど、
「主体性」とか「自主性」という名のもとに、何でもかんでも好き勝手させて大人がそのサポートばかりするのはどうしても納得できない。
かつて私は、叱ってばかりとか、枠にはめてばかりの旧態依然とした教育を強く否定してたんだけど、いくらなんでも最低限ってもんがあるだろって最近よく思う。
たとえば小さな子どもはじっと座っていたくない。だから座らなくていいよ。やりたくない活動は全力で嫌がる。無理させないほうがいいよ。そういう場面があってもいいけど、座らせる、やらせることを完全否定されてもなぁ…。
どのみち小学生になれば授業の45分は座ってなきゃいけないんだし、嫌いな授業も受けなきゃならなくなる。ところが「自由」を重視する立場では、それをさせる小学校のほうをもっと自由に変えろという主張になってくる。
授業を聞かないのは面白くないから。それは面白い授業をしない教師が悪い。本当にそうか?
面白い授業をできるのは教師として重要な能力だけど、面白い授業しかやらなくなったら、子どもは面白くないことは一切やらなくなってしまう。本当にそれでいいのか?
いくら「嫌なことは無理強いしない、やりたいことを自分で選ばせる」ことを小学校まで続けようと中学校まで続けようと、大人になれば嫌なことから絶対に逃げられないわけで、多少の我慢をできる能力は大きく育ってから身につけるほうが苦労する。
てか高校くらいになると逆に無意味な枠にはめまくってたり謎校則があったりで、そこはもっと自由にして自主性を重んじろと言いたい。幼児教育と中等教育のギャップが大きいと苦しむのは子どもなんよ。
子どもを否定しまくるのはよくないけどダメなものはダメと教えなきゃ。ダメだと納得させられればそのほうがベストだけど、納得しなくてもダメなものはダメ。それは子どもの人格を否定するんじゃなくてダメな行動を否定する。ダメなことをする子の人格を否定せず行動を否定するという区別をハッキリさせることが大切だというのが私の考え。「それよりもこうすればいいよ」みたいな提案型だとダメなことがダメだと明確にされずに曖昧にされてしまう。
そういう傾向は最近の流行なので若い人に多いんだけど。
逆に旧世代の中には、1歳児を理屈でもってガミガミ叱りつける人もいたりする。1歳児に理屈を説いても理解できるわけないし1歳児が自己中心的なのは当たり前。そんな他人に気を遣う1歳児がいたら怖いしかえって不健康。
教育のやり方には超スパルタから超寛容の極端から極端まであるわけで、私の感じるところでは、自分が最初に学んだやり方が基本的に一生続く。家庭内では自分が育てられたように子どもを育てると言うけど、教育の思想については自分が学んだやり方が続く気がする。私自身も含めて。
ともあれ極端な話では授業中に子どもが好き勝手に立ち歩いてるようなクラスのことを「それは学級崩壊じゃなくて子どもが自主的に学びたいことを探索してるんだ」と言われても詭弁にしか聞こえん。これ、将来的には社会人が研修中に別のことやったり他人のプレゼンを無視したりという社会崩壊が起きないか心配。