>>113
崇徳上皇は保元の乱で敗れて讃岐(香川県)に流罪とされた上皇。
讃岐では反省の意を表しながら、お経を書いて保元の乱の死者を弔ったりと徹底してつつましやかな生活を送り、京の都へ帰ることを希望するが、ことごとく蹴られて冷たい仕打ちを受ける。
ついに怒った崇徳上皇、髪や爪はのび放題、自分の舌をかみ切って流れた血で「われ日本国の大魔縁となりて、皇を取って民となし、民を皇となさん」と呪いの言葉を書き、生きたまま天狗になったという。
また、死んで棺に入れられると、棺から血が流れたという話もある。
そのあと崇徳上皇の敵だった人物が次々と死に、天皇家は天下を武士に奪われて武士の世の中になり、呪いの言葉が現実になった。
平将門、菅原道真とともに日本三大怨霊の一人とされるが、『太平記』では怨霊たちが日本を滅ぼす話し合いをする場面で座長になっていたり、三大怨霊の中でも筆頭に扱われている。
崇徳上皇が死んで700年後の明治天皇が天皇中心の大日本帝国を作ったとき、崇徳上皇の呪いに逆らうことになるのを恐れ、その霊を京都に戻して白峯神社を建てた。死後800年目にも昭和天皇が魂をしずめる儀式をするなど、今の天皇家も800年前の崇徳上皇を恐れている。